二年前、題に惹かれて図書館で借りたとある連作短編小説集の単行本を読んでものすごく感動し、以来その作家にそれまでより惹かれるようになるのみならず、自分が何かを書く際〈語り方〉ないしは〈綴り方〉という点において、彼に近づこうとまでは畏れ多くとも、せめて自分を影響下という自覚へ照射されるに目指す灯台と見立てた。そういう、すくなくとも当面向かうべきナラティヴへの方向づけのきっかけになった小説集には単行本未収録の短編が二つあると友人のHさんが言う。さらに彼は、その単行本未収録作品のうちのひとつこそが自分には連作小説のなかでもっとも面白く感じられた、と続けた。調べたところ当の小説集は二つの出版社から文庫化されているものの、たやすく手に入る版の文庫は単行本の移植で、やはりふたつの作品は未収録であった。
それで私はふたつの単行本未収録作品をふくむ、いうなれば〈完全版〉の方の文庫を二年間探していたが、古本屋やオンライン書店、ヤフオクにメルカリを定期的にぞめき歩いても、自分の納得できる値段で並んでいることはなかった。とはいえ値段の問題についてのみ自分を鼓舞すればいつでも手に入ることがわかったので、焦ることも焦れることもなかったが。
最近になって久しぶりにインターネットでその文庫本探しをしていたらついに納得できる価格の〈完全版〉が売られているのを見つけたので、ひとつの旅の終わりを迎えるときのさみしさのような感慨も飴玉よろしく舌にねぶりながら、二年越しに〈完全版〉を手に入れた。
さっそくHさんが「最も」と言っていた作品を読んで、まあシンプルにめちゃくちゃおもすれーwというのが最初に思ったことだったけれど、読み終えてその作品の全体を俯瞰の位置から考えたとき、私は心にそれまで照らされんとしていた灯台と同義でありながらまた別種類の〈語りの仕方〉を発見した。
私が二年前に似而非を標榜した〈語り方〉というのはレトリックについてだった。それは私がてにをはだとかの組み合わせに興奮を覚えるたちであるからで、てにをはの組み合わせで一文というのは一体どこまで引き伸ばすことができて、また、それによってどのくらい読む人に読書の時間を遅延させることができるのかというのにもまた、興味があった。そしてそれは、複雑さと冗長さによって読者への読みやすさを非考慮しながらも〈美しさ〉の獲得を目指すという造形とか設計的な欲望と、もっと幼く無邪気な〈言葉と戯れる〉ことへのよろこびが並立していた。きもちよくて楽しいからやっているということだ。
このたびの「未収録作品」読書のあとで私が発見した〈語りの仕方〉はもっと、文字通り俯瞰的な、作品全体の構造の作り方についてだ。先の〈組み合わせ〉という表現に沿って対応させるなら〈順列〉の仕方といえる。当該作品がみずからを小説であると名乗っている以上、〈小説における〉と前提するけど、たとえば旅をするように物語のコンテクストを歩いて行く・そのように書くという行為において、その道筋が直線的なことは圧倒的に面白くない。私は何を書くにおいてもなるべくなるべく直線的にならないように、旅のたとえならなるべく寄り道をしたり、結果として全然知らない場所に迷い込んだりというのを励行するようみずからによびかけているけれど、今回の〈発見〉はそれと矛盾せずにしかし、またすこし角度のちがう、なんとも新鮮なやりかただった。まだ自分の中で精査できてないのでここに詳しく書くことははばかられるし現在までですでにみずからの半可通っぷりに嫌気がさしてキメーのだけど、とにかく、ずっと読みたかった本を読んで、おもしろかったし、あらたな発見もあって、楽しい気分になった。ということを長々書いたに過ぎない。
いま、どこまでも書き歩んでいけるしいつまでも書きこんでゆけるような浅はかな感覚と幼いよろこびに私がうれしがっているのを邪魔する冷ややかな目を誰かがもしくは自分の中の意地悪な部分が向けることもあるだろうけど、同じ文章のつづり作業でも明確に〈作業〉と捉え、またそれゆえに関係者へ恒常的な心の応援を要請することでなんとかすすめる台本執筆と、たとえばこういう誰かのパクりにすぎないと吐き捨てられ〈無意味〉と書かれたハンマーで頭を叩くに易い文章は違う。恥ずかしげも無いように見える私の態度の本来には、みずからの恥ずかしげを個人的に乗り越えて、もしくは、目を瞑って、もしくは〈手習い〉とか〈筆ならし〉と大きく書かれた盾を掲げて書き進めるおくびょうな子どもがいる。乗り越えているのでも、目を瞑っているのでも、盾を掲げているのでも、そのいずれにせよ彼はやわらかな眉間へ似つかわしくない太い縦皺を何本もこさえ奥歯を強く噛んだ表情でそうしている。
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