20260606

好きな人の名前はいつ見ても美しくて大好きだなって思う

  いちいち過ごすには永くて、いちいち振り返るにはみじかいひと月が終わって今度は過ごすにあたってみじかい日々。毎日U-NEXTで昔の「名探偵コナン」テレビシリーズを観て、毎日何時間かはドトールに行って腕組みしたり居眠りしたり音楽を聴いたりケータイ弄ったりする。それでもプロットをいくつか書いたよ。映画。


 今日は珍しい友達と吉祥寺でお茶をした。基本的にはコナンの話をした。

「トラヴァースの恐怖殺人事件」がBGMの使い方が変。とか

「ナイトバロン殺人事件」の犯人が、実刑自体は免れないとして、ともあれ情状酌量は適応されるだろうというのと模範囚ではあろうし動機を鑑みても再犯性は極めて低い、しかしながら捜査を撹乱するトリックは使っている。それではいったい刑期は何年くらいなんだろうか。とか。

妃英理は絶対ヤンデレだし、小五郎の気付きえぬ本性があると思うけれど例えば二次創作はその辺フォローしているのかしら。とか。

おれは好きな人が、きっと大っぴらにはできなくても小さな結婚式を挙げる日を想像して詩に書いたことがある。それも思い出せないくらい前のことだ。


 ビーリアルに毎日同じ写真をあげている。だからビーリアルは本人じゃなくても誰が見たって面白くないビーリアルだけど、日付的な意味を無にかえすおれのビーリアルは、アプリをインストールさせてまで毎日テーブルに置かれたアイスコーヒーとオヒヤと本とメモ帳ばかりの映っている写真を見ている限定的な人数の友達の「貴方のそういう日々が自分を励ます」という目論見に即している。役に立ってたら嬉しい。



 今日ドトールで、少しだけ生活のためじゃなく使えるお金が生まれてようやく買った本をそれこそようやく読んでいた。いくつかの講演会のための原稿集成。

さなか不意に、おれの好きな、世界で一番好きな映画監督の名前があって、思わず本を閉じてしまった。紛れもない天才だけど一般的に名前を見ることのない監督だから。シンプルびっくりしてしまった。

おれはフラフラと立ち上がり、店内をうろうろし、階段を登って2階のフロアも一周して、喫煙ルームでしゃがみ込んで、また階段を降りて本を開いた。

テキストはその作家の底知れなさの分析を試み、分析できないという展開だった。おれは嬉しかったというか、感動した。

彼の天才性は、ちゃんとそうと知らしめられているんだというのと、天才性を放り投げずにこうして出版物に写真付きで分析されるページがこの世にちゃんとあるんだ!と思ったから。おれはずっと彼の夭折を悔いている。自分が会えなかったこと。

おれは忘れないし、おれじゃなくても忘れずにいる人もいて、思い出せるよう遺す人もいる。映画。


こぼれ落ちる時間がある。ビーリアルからも記憶からも。

昨日アルバイトの休憩時間に映画のためのメモをした。映画。

20260309

回転する世界の静止点

 iPad Proの待受──アプリアイコンが並ぶ画面の壁紙も待ち受けというのでしょうかね、その待ち受けというのか壁紙というのか曖昧なものを最近デフォルトから変更した。


 私が変更設定したのはインターネットから拾ってきたある一枚の写真。

昼の大きな広場の大きな噴水の淵に一組の男女が座っている。外装から察するに季節は晩秋か冬か春先か。女性は膝にカバンを乗せて片手に袋パンを持って、もう片手を指折り、隣の男性に何事か話しかけている。一方の男性は脚を組み、女性に向いていない方の下げた片手にタバコを、もう片方の手でみずからのボサボサの髪の毛を掻いている。顔は少し俯いていて、だけどその表情には、照れたような、マイッタナというような、なんとも言えぬ微笑をたたえている。


 インターネットによれば1995年に東京で撮影された写真だが、誰が撮ったものかは不明という。なんでそんな写真が現代インターネットにあるのかはわからないけど、インターネットってそういうものかもなと思うしどうでもいいんだ。私はこの写真を見てね、巨きく深い感動を覚えたのだ。

 誰とも知らぬ者がなんの約束もなく訪れた広場で、誰とも知らぬ二人の、彼らの記憶にも残らないような一瞬。女性の表情も男性の表情も、取り巻く風景も、なんとも言いえない。

バルトの言っているプンクトゥムというのは多分この感動のことだけど、私の言葉にできなさが分類されていて名前までつけられていることに多少なり遺憾もある。言葉にしてしまうことは時としてなんてつまらないんだろう。分類とは言葉という情報にすることだ。それはなんて味気ないんだろう。野の花を摘んで名前を調べてしまうことは。

 この写真を眺めながら、いろんな音楽を聴いてみたくなって、一人でプレイリストを作ったりした。THE ALBUM LEAF「Always for you」や、TOMOVSKY「コインランドリーデート」が入っている。聴きながら、酒なんかあおりつ改めて写真を眺めると、まるで一瞬という尺の映画を観ているようで楽しい。


 写っている二人はどういう二人なんだろうな。恋人かな。でも恋人じゃなくてもいい。でももしこの先に恋人になったら嬉しいな。二人の姿は私の、ごく個人的に思い描くところの理想の男女なのだ。自分がそうなりたいとかというのは少し違うんだけど、そう、〈自分〉というのを差し引いた理想なんだ。

きれいだな。かわいいな。美しいな。素敵だな。どんな言葉も足りないなあ。それで結局「良いねえ、良いなあ、ねえ?」という曖昧に到着する。

いま、宮沢賢治が書いていた「あれは然うですね」という言葉への希求を思い出した。俺は、プンクトゥムより「あれは然うですね」の方が好きだな。


 少し前の話だけど、この写真を見て自分に発生した感動を基に一本小説を書こうと思った。その小説(『回転回転回転する世界の静止静止静止点』)は、3ページ書いたところで続きをとめているのが今。オチだけ決まっている。だけどまだまだ到達しない。もしかしたら小説ではなくて映画にするかもしれない。わからない。未分化のままにしてある。

20250809

籐椅子

 スツールの籐椅子が欲しい。

 以前そこさくで山﨑天ちゃんも籐椅子が欲しいと言っていて、たぶん俺は豆腐ごはんか納豆ごはんかカレーかソバを食べながら(その四種類ばかりを家で食べるから)「いやぁ!わかる!!」と声に出して十代の天ちゃんに文字通りの共鳴を果たしたものだ。
 あぁ、籐椅子。スッと読めないのもニクらしい。籐を表すとき以外に使わない漢字。椅子にしては軽いけど不安にはならない重さ。骨組だけのようで夏でも涼しそうなこまかな隙間。揺れたら不安になる、バランス感覚を試されるスツールという形状。
 旅館やなんかで籐のスツールに座るときは嬉しくなる。尻を載せる前にしみじみ撫でたりもする。
 かれこれ一年以上籐椅子が欲しいのだけど、買うとなるとなかなか高いし畳部屋に籐椅子はいらんという声もまた内から意見される。
 でも欲しい。そういうとき私がどうするかというと大体パターンは決まっていて、籐椅子が必要になる台本を書いて映画をつくるということになる。ラブストーリーでもホラーでもなんでもいいのだが、時として尋ねられる「どうしてこういう話を書こうと思ったのですか?」に、それらしい返事をしながらたとえば本心なんていうのは「籐椅子が欲しかったから」だったりする。
なんとも身も蓋もないスカスカな理由。だけど間抜けなのではなく、風通しがいいと言われたい。
 

20250710

向日葵の花

想像するだけだった未来が現実になってやって来る。    

 2020年のコロナ禍で職場も長期休みになって、外出自粛で家からも出ずに自分は何をしていたっけと当時を顧みるとき、思い出せることは
よこやんの写真とアンタッチャブルのザキヤマの写真が似てると気づいて並べてTwitterに貼ったことくらいだ。だからコロナ禍の、あの憂鬱な閑とよこやんとザキヤマの写真は俺にとってセットになっている。


 よこやん。本当のことを言えば神の子まーちゃんだかがよこやんのことを「ポコやん」と何かで呼んでいる映像を見た時からおれのなかではずっとポコやんと呼んでいるのだが、上に書いたよこやんとザキヤマの写真を並べて投稿した2020年の八月からちょうど一年が経ったころ、そのときもたまたまポコやんのことを考えていたおれは、こんな投稿をTwitterに書いている。


ポコやんが「家では暗いし一言も話さないですよ」と言ってたけど、いつか現れるであろうポコやんと結婚する人というのは、そんなありのままなポコやんでいられる相手になるのだろうか?そんなポコやんですら笑顔にさせてしまう相手になるのだろうか?

このことについてはいまだに答えが出ていない。ただ、その時(も暇だったからか)一週間くらいは考えていた記憶がある。


 よこやん。ポコやん。加賀とのことは書かない。だけどおれは歴代の期のなかで十三期がもっとも美しかったとずっと思っている。二人が顔合わせをした時も、加入を知った他の子達が稽古場で二人を迎え入れた映像をみた時も、あらゆる舞台裏の映像をみたときも、ソロフェスでのポコやんのパフォーマンスが加賀のことばかり果てしなく言及してたのをみた時も。
 十三期が最前線になる未来を想像したこともあったし、いつかは二人がいなくなることも想像していた。ひとつめの想像は加賀がいなくなったときから想像しなくなって、むしろふたつめの想像の色が強くなった。十三期は二人で完成されていた。ポコやんがリーダーにならなかった先日
の発表で、こんな日が来るのをもう一度想像した。そんな日が現実になった。芸能活動を辞めること。芸能の外で、もう一度十三期が揃ったように感じている。おれの地元の市の花は、ポコやんのイメージフラワーだった。心の中で花束をこさえてたむける。

20250512

自分を復習する

「すごいね」って言われるのも「良い人」って言われるのも苦手で、それは本当に別に良い人でもなければすごくもないということを二四時間×365日×うんじゅう年、自分という身体の中からつきっきりで見ている俺だけは毎秒目の当たりにしているから。


1.

 自分はおそらく凄い人間なのではないかということを、振り返れば二十歳くらいまでは思っていたようにも懐かしむけれどもう忘れてしまった。

 それは自分に絶望したとか周りの凄い人たちとくらべて卑小さを思い知らされたということではなくて、自分の、たとえば〈才能〉とか〈運〉みたいな言葉であらわされるポテンシャルの部分に興味がなくなったということです。念を押すけどケほどもネガティブじゃないし厭世的でもない。

 もとめずに目にし耳にした先人たちの言葉の累積が俺のスタンスの土台や支柱にあるから、これは思い込みでもゆらぐオリジナルな思想でもなくて、ゆえに力強い。

 累積の中にはたとえばこんなのがある。

鈴木敏夫の「何かを作るにあたっては、自分を信用しない」という言葉。

黒沢清の「内面の葛藤はカメラで撮影できない」という言葉。

菊地穂波の「作家の才能あるなしは内容を問わず書き上げられるかどうかのみではかる」という言葉。

 いまパッと思い出せない言葉は割愛するけどそれらも累積から除かれるわけではない。

 〈天才〉という便利な言葉は本当便利に使われているが、天才という言葉の使われ方というのはむしろ〈天才じゃない〉という自らの可能性への諦めの際に多くある。

 昔なにかの脚本にこんな台詞を書いた。

「諦めるっていうのは、こんなに簡単なことなんだ。知らなかったね」

 この台詞を何に書いたかのかは忘れたし当時からそのようなことを考えて書いていたのかもおぼえてないけれど、自分がかつて無軌道に書きつけた言葉にむしろ現在の自分が影響されるようにして、最近とみによく考える。

 神聖かまってちゃんを久しぶりに聴いてて、偶然にもこんな歌詞にも出くわした。

「諦めてもいいんだよ」


 何かを諦めることほど簡単なこともない。即時やめればいいんだから。もうやらなけらばいいんだから。そして伴痛はともあれ肩の荷は降りる。

 誰しもテイのいい言い訳を見つけるのは得意なのだから、「諦めてもいいんだよ」なんて言葉、他人に言われるまでもない。


たとえば何か目指すものがあったけど環境のせいで継続が難しくなって諦める。

とか、

たとえば好きな人がいたけどフラれてしまったから恋を諦める。

とかあって、それを「仕方ないよね」とみなすのはとても簡単だし自然に見える。俺も諦める人がいたとして、一応そのような言葉をかけるだろう。

だけど俺が、前提として自分事に限定した上で定義づける〈諦める〉という行動があらわすのは、シンプルにその事柄・対象が自分にとって大切じゃなかったという事実の証明。注釈するけど良い悪いではない。

 たしか伊集院光が談志の『雛鍔』を聞いて衝撃を受け噺家を辞めたという話を聞いた当の談志が「本当は格好のつく辞める理由探してただけだろ」と言ったみたいなエピソードがあったけど、なかなか手厳しいことを言うなぁと思いつつも、この言葉の本質には、諦めることの容易さもさることながら、人生を賭してなにかに向き合うに伴う難渋を〈努力する天才〉と称された談志が、むしろ"努力する"の部分を太字にするようにして感じ続けていることのあらわれがあるように思える。


 自分の人生うちに健やかさや穏やかさを重要とするなら、なんだって嫌になったら辞めてしまえば、諦めてしまえばいいのだ。皮肉ではない。自分が大切に思っていた対象がそうでもないと分かることは、消極的に大切なものが解ることだとも思うから。

 俺自身の話をすれば、小さい頃は漫画家になりたかった。四歳からずっと絵を描くのが好きだったから。小学生のうちは小説家になりたいとも思っていた。本を読むのが好きだったから。大学生のうちは演劇作家になるのもいいななんて思ったこともあった。そういう学科にいたから。そして別々の理由から、いずれもプロになることは諦めた。ただし俺が諦めたのは〈プロになること〉なので、絵を描いたり小説を書いたり戯曲を書いたりというのは、趣味みたいなものだけど、時々やる。そして〈時々"やる"〉そのことだけが大切に思うし、"やる"人たちのことは、対象がなんであれ全員同士のように感じている。

 安部コウセイが「風とロック」に寄せたエッセイ『ロックとロック』の末尾にこんなことを書いていた。

「金や、テクニックや、知識は必要だ。それで飯食ってるんだから。でも僕は極端なところ衝動があればロックできる。衝動をなくしたロックなんて、ただのウンコじゃろがい!」


 ガチでそうだなと思う。諦める理由はひとつだが、誰に頼まれてるわけでもないことをそれでも続ける理由もまたひとつだと思うから。

 だから翻るが、俺に関して「すごいね」なんてことはない。〈えらい〉という括りで言えば具体的な社会貢献や他人のために自分を犠牲に奉仕する方こそが偉い。俺はそういうことは、本当に出来ない。



2.

「良い人」という言葉を賜るときの苦手意識の要因は、シンプルに全然良い人じゃないからで、そのことは去年くらいに、久しぶりに会ったかつてほのかに片想いしてた相手にこんなことを言われた時に確信を得た。

「シビヤくんはさ、良い人だとかやさしいとか言われることが多いと思うけどね、あなたが感じているそれらへの居心地の悪さの要因は、あなたが良い人とかやさしいとか他人に見做される行為や言葉や態度の源が〈気まぐれでやってる〉からだと思うよ」

「あなたを本当によく分かっているどうかは、あなたのことを〈気まぐれな人〉とか〈ドライな人〉とか〈冷め方の極端な人〉とか見做しているかどうかだと私は思うね。やさしくするのも、優しいからじゃなくて、ただ相手のことがその時好きだったりでやさしくしたいからしてるだけでしょう。好きじゃない人にやさしくできないタイプでしょう」

 彼女のこれらの指摘や見解のすべてが実際のところ当たっているかどうかはわからないけれど、俺は本当に(特に自分という自体へ)意志があんまりなくて、だから「こうされたら嫌だな」とかも予想ができなくて、されたことを嫌と感じてはじめて「こういう嫌なんだ?」とみずからを発見するみたいなことがよくあるし、「あなたはこうなのよん」と他人に言われたことを「そうなんだ!?」と鵜呑みにするので、これら指摘や見解も一笑に伏したりはせず、心の抽斗にしまっている。時々とりだして、眺める。


 ともあれおそらくは、とかく〈博愛〉と対極に位置するスタンスを持ってる。俺が大賞へ向ける興味や好意にはたぶん段階が五段くらいあって、原則固定されずその時々で流動する。固定される例外がひとつあるが、ここには書かない。

 俺なんてのは、たとえば興味がない人への興味のなさたるや……なのだ。これは俺が興味のない(もしくは興味を失った)人へ向ける態度を目の当たりにしたことのある何人かから笑いながらの注意すら受けたことがある。そんなやつのどこが「やさしい」「良い人」なんだぇ!!


 周りの誰を見ても、誰を思い浮かべても、「いいなぁ、羨ましいなぁ」って思う。あなたみたいに生きられたらってみんなに本気で思ってる。


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 終わりに。こういう文章を書くのは自分のことを誰かにわかってもらいたいからとかではなくて、だから別に読まれても読まれなくてもよくて、これを書くこと自体が目的で、時々こういうふうに考えたことをまとめないと元々うすぼんやりしている自分の輪郭が本当に消えてしまうと思ってるからだ。なんとなく、いろんなことがどうでもよくなることや、さようならすべてのエヴァンゲリオンみたいな気持ちの時期って、誰しもあるでしょう!

20250427

練馬のアイツとオソロのロマン

 欲しかったヘッドホンを買った。いつから気になっていたのだろうと心の古文書を紐解き褪せたページにもとめればどうやら2023年の年末あたりらしいので、歳余を超えて逡巡していたことになる。珍しいことではない。

 ヘッドホンの相場なんてわからないが、カッコかわいい姿かたちの脳裏に浮かぶにあわせGoogle検索窓に名前を打ち込むその都度あらわれる身の丈に合わない数字の並びにピヨってた日々のなか、その身の丈に合わなさを諦める理由の筆頭に置いて忘れよう忘れようとつとめた。本末転倒のルーティンは永く続いた。それも終わりだ。

 〈欲しい〉という欲求は片想いに似てるなんて安いこと言うべくもないけど、何かへ向かう気持ちや欲求はロマンチックである方が望ましい。

 〈欲しい〉という気持ちや欲求のどのような点にさだめてその純度の質を測るべきかと考えてみると、どれだけ〈別に必要ではないか〉だと思っている。何かを欲求するにあたり〈必要〉という基準を設けると、それは欲求を正当化するために機能してしまう。〈必要なもの〉に私たちは想いを馳せないのだから、私はそれをロマンチックでないように感じる。


「あぁ、また要らないものを……」とか、

「あぁ、別に持っているのに……」とか、

金を払って手に入れる前にせよ手に入れた後にせよ〈別に必要でない〉ものが喚び起こしたストレスへ屈しこうべをガクンと垂れる私たちは、他人から見えぬ角度でこっそり口角をあげている。二律背反が胸うちに鍔迫り合いを演じる時、こすれる刀身から散る火花を私はロマンチックであるように感じる。


 これから暑くなる。暑くなる時期に私はヘッドホンをなるべく使わない。なにせイヤホンあるし。せっかく手に入れたヘッドホンの活躍の場がすぐに用意されない。おでかけに伴うにおいてもヘッドホンってデケくて邪魔だし。イヤホンならポッケに入れておけるし。首にかけとくのも絞まる感じするし。イヤホンに何の不満もないし。

 こうしていま並べられた私のすなおな心持ちのひとつひとつが、このたび私がいかにヘッドホンを手に入れてピカピカに嬉しいかのあかしなのです。

20250202

「思った……」という音

 自分がいま現在の気持ちとしてこんなにも大好きな気持ちを向けるときに死という透明な壁によって阻まれてしまい届けることがかなわない相手に対して、私たちは写真にせよ映像にせよ書いたものにせよ、彼の人生の足跡だけをながめることで踏みしめた蹠を想像することしかできないけれど、今日観ていた映像のなかで私の大好きな人がこんなことを言っていました。

「──僕は、この人はいま希望の根拠に至ったのだと、思った……」

 このセンテンスの内容はいったん置いておいて、末尾の〈思った……〉の部分の言い方──というよりも発話、発声、ため息のように、あるいは彼が言うところの"思った"ことをいままさに思い出して味わいなおしているような……この……これが……

 ぼんやり聞いていた私は思わずびっくりしてビデオを巻き戻しそのまま3回連続で当の箇所を聞いてるうちに涙が滲みでてきた。涙が出てきたことで二度びっくりだった。くりかえすけれど内容じゃなくてあの音に私は泣かされたのだ。
 だけど、涙がながれるに至る理由を説明することができない。少し考えてみたけどやっぱり言葉にできない。そのことへ、私はなにより感動する。頭や意識を置き去りに心や身体が反応を示す。嬉しい。とても嬉しいこと………。

これ以上書くまい。説明できちまうといけねえ。