『ザカリーに捧ぐ』、『夏の毛になる』という二つの作品を年始から観た。まったく似てはいないこれらの作品をそのつもりもなくたまたま続けて観たことで、しかしながら二つを並べて感想を書くことを求められてような気持ちになるから書いている。求められている?でも誰にか?
『ザカリーに捧ぐ』は、ある悲しい事件にまつわるドキュメンタリーで、その被害者の親友が監督した。
『夏の毛になる』は、ナイトウユキという一人の女性の半生を描く演劇作品で、主人公と同姓同名の内藤ゆきさんが企画・脚本・主演を務めている。
『ザカリーに捧ぐ』はともあれ、『夏の毛になる』のナイトウユキが内藤ゆきと(ニア)イコールで結ばれるのかどうかは、内藤ゆきさんと知り合いではない私にはどんなに言葉を重ねても類推の域を出ないし、本音を言えば〈演劇〉として、──言い換えれば脚本が書かれ演出がつき俳優たちによって公演期間に複数回同じ出来事が繰り返された──つまりは作品という発表形態を取られた時点でどっちだっていいのだが。しかしながら『夏の毛になる』が事実を編集する形で作られた(っぽい)ということをどの程度無視して感想を書くべきかというのは、おそらく『ザカリー』『夏の毛』をわざわざ並べ立てるよう求めてきたあの〈何者か〉のために書いている気分である私は、その点慎重にならねばねという思いもまた、ある。
まず前提として申し上げたい姿勢として、私はそもそもドキュメンタリーというジャンルの作品に感想を述べることを好まない。これは好みの話でもあるが個人的な倫理観に基づいている。ドキュメンタリーが嫌いなのではなくドキュメンタリーに面白い/面白くないだとかの評価みたいな判断を下すのを好まないという意味。〈それ〉は本当に起きたことだから。本当に起きたこと、特にドキュメンタリーで取り上げられる本当に起きたことは、その多くが、作者もしくは被写体の悲しみや苦しみや祈りを内包している。実際に悲しみ苦しみ祈る人間の姿は、面白いとか面白くないとかではない。良い悪いでもない。「そうなんだ」という一言だけで済ませたいのが私なりの誠実さなんだ。
劇中で何人が殺されたとしても画面の外には誰も死ぬことも悲しむこともない、つまりはどこまで行っても寓話で比喩の域から出ない〈フィクション〉という在り方と、この世界と直列的に地続きな〈ドキュメンタリー〉という在り方の差異に、私は鑑賞者として対峙するにおいて、ものすごくこだわる。
だからこれから二つの作品を、〈ドキュメンタリー作品〉という前提で感想する時と、〈フィクション作品〉と前提して感想する時では、語ることの対象も論点も異なるのではないかと予想している。多分そうなる。それが、私が「そうなんだ」で済ますこともできる中でそれでも野暮のような感応を書きくださせた、作品の力の証明だから。
【フィクション作品として】
『ザカリーに捧ぐ』はまじのフィクションではないから【フィクションとして】とか書いておいていきなり難しいが、これが映像作品であるという点でまだ語る余地を残している。複数カットを時系列ではない順番で編集される時点で、その内容ではなく編集における〈並べ方〉には演出が宿る。時系列ではないというのが重要だと思う。操作されているから。そしてその点で私はほとんど唾棄の気分というか、「くそ最悪じゃん」と思う。監督に対して。
今作で扱われている事件のあらましは事実ゆえに前述の前提によって割愛および無視するが、事件の被害者の親友で、学生時代に一緒に映画を作ったこともある監督が、被害者男性への哀悼と、生まれてくる「世界一幸せで、世界一不幸な子」である被害者男性の息子に、「君のパパは世界一最高だったんだぜ」というのを教えるためにこの映画は作られるのだ、というのが劇中、監督によって語られる。原題『DEAR ZACHARY:A LETTER TO A SON ABOUT HIS FATHER』というのがいま私がダラダラ書いた一文を要約している。ザカリーというのが息子の名前である。私は映画を観ながら「ザカリーに観せない方がいいんじゃないの」と危うさを感じていた。ザカリーの父に対する賛辞は家族も友人も元カノまで出てきて語られるが、それは彼らがいつかザカリーに会った時に直接言えば良いと思うんだ。もしくは、インタビューをするにしても、ザカリーの父が恐ろしく悍ましい事件に巻き込まれる、その本当に悍ましい内実を、なぜザカリーへつまびらかに知らせたいのだろうか?「作品」として発表されれば、ザカリーの意思と無関係に彼は知ることになり、また彼の人生にこの映画がついてまわってしまう。事件のことは、父を喪って育ったザカリー自身の人生の、彼の望んだタイミングで、彼の能動的な意思によって知るべきではないのだろうか?
とはいえ観進めていくと、なぜこの映画が作られまた世に発表されることになるのかは納得できた。ああそういうことね。そういうことならまあいいかとさっきの懸念は去る。だけど、冒頭に私が「くそ最悪じゃん」と思ったのも、納得の終わった後に最も去来した感情なのだ。
事件が起きたということは、その事件の被害者や加害者がいるということであるし、それがドキュメントになるということは、再現ドラマではない形態つまり既存の素材の組み合わせによってその事件の内容を表現するわけだが、ところどころの編集にものすごく皮肉的というか、不愉快な、作者の悪意を感ぜざるを得ない箇所がある。無自覚にやったと言われても信じない。本気で「どういう神経してたらこの時にこの映像をつけるんだ」と思った。この映画を作るにあたっての作者の、変遷しながらも貫こうとする意志だとか祈りだとかモチベーションを偽りだとまでは言いたくないが、編集作業中にその意志/祈り/モチベーションが「作品を作るための」演出に第一義を見出してしまったんじゃないのか。そうじゃなければ、いやそうだとしても、迂闊すぎる。悪魔のような犯人への怒りを携えてるのはわかるけれど、この悪趣味さはお前も十分悪魔だよと私は思う。
『夏の毛になる』についてを【フィクションとして】考える。ナイトウユキの半生は彼女が自身で自嘲するように、いつも二択を最悪な方向へ間違えるらしい。それでも私は、だとしたら内容が薄いんではないかいと思った。彼女は「二択を間違え」るというけれど、ではどうすればよかったの?と思えば、どうしようもなくないか?と思うし、劇中でナイトウユキが自ら選択したことは〈女優を目指して東京へ行く〉〈社員になって遊びまくる〉〈病院へ行く〉くらいしか思い出せないのだが、そのどれもに対して、二択も何も、他に選択肢を作者は用意しているのだろうか?最後の〈病院へ行く〉はまあ、あるか。でもそれぞれのナイトウユキの選択は、最悪なのかなあ。強制的な一択に見えるけれど。強制的な一択、特にラストの展開である〈病院へ行く〜裁判する〉というくだりに、観客は打ちのめされ、ショックを感じ、心を揺り動かされているのだと思う。「なんでこんなに可哀想な目に」もしくは「明日は我が身」と。だけどあくまでフィクションとして考えるとき、そこまで目新しい展開ではない。観客の感想を見るとそのどれもがノンフィクションであるという前提を持っていることと、私がいま自らに強制的なフィクションとしての前提を持っていることの乖離だろうけど。現実世界の話ではなくてフィクション作品の話としてあの展開は、ゼロ年代後半の携帯小説ブームで量産された悲しみやよるべなさの範囲にとどまっていると思う。
だから私は半生の変遷つまり物語としては不満が残る。もっとさ、もっと素晴らしい一発逆転ができたんじゃないかしら。私がこの作品で好きだったのはむしろ前半だ。トランポリンを買うも足がついていなくてゴミ。目論んだことは達成できず、それでも無理矢理にでもはしゃいだ自撮りを撮って無理矢理にでも楽しい気持ちになる。私はそこに自嘲を見なかった。これが人生を楽しく豊かにする方法だ、と思った。痛快さを見る。その後の、夢を持って上京する前のシーケンスもいい。犬のソラが失踪して、だけど隣家であっけなく見つかって、最後の散歩で星を見る。私たちが目にする星の光は光年分離れた、昔の光だ。昔の光を見ているナイトウユキとソラの姿もまた、現在時点のナイトウユキの回想で、つまりは昔の“光“景だ。その回想を見ている現在の観客である私たち。このメタ的な構造にあって、しかしながら誰よりも未来を展望しているのは夜空を見ているナイトウユキなのだ。構造に尽きず視座を未来へと伸ばすあの煌めきは、マジで、星の光のようだった。
その先に待ち構えているのは普通に普通のありきたりな現実だった。過酷なように描かれていても過酷ではなくてあれが現実の現実性だ。現実だな。現実って感じ。だ。過酷に感じるのは夢いっぱいだったからだ。だけどそうじゃん。夢いっぱいだと思って現実が現実って感じならそうなるよ。ラッキースターは降らない。泉こなたみたいな髪の色をして長さをした女子高生はいない。現実っぽい現実を「現実だな」と醒めさせないのは内藤ゆきさんのチャーミングな芝居とそれによって身体を得るナイトウユキの可愛い人間性と、学くん/高橋さん との会話を時系列を違えながら同時に進行させる演出の鮮やかさなんかに依る。つまりは編集だ。シーン編集が恐ろしくうまい。ものすごい技術だ。内容がありきたりで薄いと私は感じながらも退屈にはならなかったのは、テキストというより演劇としてものすごく高い水準でのフィクションになっていたからだ。
そうだ、だから、『夏の毛になる』は、ナイトウユキがいかに可愛いかの話に終始するのでよかったんじゃないかしら。いろんなバカな失敗をしてしまうけれど、どんな時でも元気で、落ち込んだりもするけど、いつでもあの頃のように星を見上げるようにして、素敵な彼氏がまたできる予感や、宮﨑あおいじゃないけどまた別の在り方としての自分を見つけそうだよ、そんなバカみたいでウソくさくてご都合主義的な展開が、どこかにあっても良いと思うんだ。結局「大成を夢見て上京した女性のあるある転落物語」と要約されるには、ナイトウユキは可愛すぎるよ。彼女の半生があんなに打ちひしがれるだけの瞬間ばかりであったはずがない。例えば彼氏と出会って恋に落ちる時には胸の大鐘楼が爆音でリンゴンリンゴン鳴るとか、あったはずなんだ。どうして彼氏が劇中に登場する時は、彼女に冷たくする瞬間だけなんだ。夜を明かして話を聞いてくれる時間はナレーションだけなんだ。ナイトウユキをいじめているのは、観客にネガティヴな感応を感じさせている元凶は、この物語自体だ。私は『夏の毛になる』という物語を憎む。それは俺の好きな子をいじめるな!という、ちびっ子みたいな気持ちだ。
おい!ラストシーンで転んで遂に泣いちゃったじゃねえかよ!せっかくご飯が炊けたのに転んでこぼしちゃってるじゃないか。てめーーー!!!!
ご飯をこぼさせるなら、そのこぼれて服にいくつも付着したご飯粒が、まるで星空になっているということを、観客に気づかせてほしい。私はまるであの冬の星空みたいになってるよユキちゃんと思ったよ。ご飯つぶ座だね。生活座だね。食べれる星だよ。そう思った。喋れるようになったソラはその指摘をするべきだった。観客はソラとユキちゃんがおしゃべりできるからって救われない。ユキちゃんが悲しんだままだから。「夏の毛の新しい私になるんだ!」というユキちゃんのヤケクソな明るさだけでは救われないよ。だって何も現実つまり物語自体が彼女に優しくしてくれていないんだもの。ソラが、「ユキちゃん、ご飯粒が星空みたいだね」って言ってくれたら。昔会ったことは消えないけれど、自分を生かすために食べれるんだ。そんな希望の提示の仕方をしてくれたら。最悪な半生から未確定の未来を眺める。きっとユキちゃんに来るんだから。全部全部取り返せるよ。出てきたやつ全員大集合して『かえるのうた』のラストみたいにしてしまえばいい。そのあり得なさがフィクションの力だと思うから。
【ドキュメンタリーとして】
『ザカリーに捧ぐ』をドキュメンタリーとしてどうこう言うにあたり考えるのはやはりあの痛ましい事件について、被害者男性の父の近親者たちが総動員されていることで彼らは2008年の公開から現在時点で15年以上経過して、例えばこんな島国の無責任な人間が、彼なりの矜持に起因していても「そうですか」という感想を持とうとしているのをどう感じるのだろうかということに尽きる。私たちは他人で、当事者の痛みの量を感じ得ない。死ぬほどの痛ましい事件をお正月の暇つぶしに使う。つまり、作者および関係者たちと、無傷な他人である鑑賞者の乖離の問題がここにはある。私は正直なところ、中盤で「おー、そうなるんだ、なるほどね」と思ったよ。まるで物語を見るようにして。だけどそれはそう思わせるように演出されていたからで、私の人間性の問題だけじゃないと感じる。しかして、写された近親者が私の「おー、そうなるんだ、なるほどね」をどう思うんだろうと一拍置いて考えてしまう。痛ましい事件とそれにまつわる魂が、歴史の砂浜で波にさらわれないようにするという、ジャーナリズム的義務感は記録映像のひとつの責務だと思うけれど、『ザカリーに捧ぐ』は記録映像ではなくて、個人の悲しい記憶の集積だ。そして彼らは、この映画に依って、顔と名前を私のような島国の無責任な人間にみとめられ、可哀想な人たちと印象されてしまった。15年以上も経って。
『ザカリーに捧ぐ』に限らないが、悲しい出来事が扱われたドキュメンタリーを目に耳にする時に、私の心に浮かぶ一説がある。その、吉田健一『長崎』からの一節を引く。
戰爭に反對する最も有效な方法が、過去の戰爭のひどさを强調し、二度と再び、……と宣傳することであるとはどうしても思へない。戰災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人達も、見せものではない。古傷は消えなければならないのである。
戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでも拘はつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つてゐる感じがするのである。
これは私の心にあるひとつの指標である。傷は回復しなければならない。どんなに悲しい瞬間を切り取られたドキュメンタリー映画の後にも、人生には続きがあるから。
『夏の毛になる』を内藤ゆきさんの半生を基にした自伝的作品と前提して考えるにあたっても、『長崎』の一節のことは浮かんだ。ただ、個人が自分の苦しみを昇華する目的でそれを作品化すること自体を私は否定しない。「いま、自分はあの頃のことを書かなければいけない」という天啓があるのかはどうあれ、これからの人生を送る自分にその出来事を切り離すために、作品化は有効だと思うから。私がひとつ心配なのは、自身が演じることだ。稽古期間を含めて何度も向き合い、また多くの衆目の前で(どうしたって)道化的に、悲しみを再体験することは、内藤ゆきさん自身に悲しい記憶を消えない呪いにしてしまわないだろうか。この作品によってスッキリした他人事と、幾分でも捉え直すことができたのなら私の杞憂はくしゃくしゃに丸めてミキサーにかけて晴れた日にでも風に飛ばす。
この作品を〈ドキュメンタリー〉として捉える際、上記もさることながら、私が上演当時にツイッターなどで何度もその題を冠して投稿された文章を見るにつけ感じていたことは、作品の内容というよりは観客たちの反応だった。詳しく全てを精査しているわけでもないので感想を私の印象として包括することに後ろめたさを感じるが、作品を飛び越えて〈内藤ゆき〉という人間に対しての、それは憐憫であったり賛辞であったりするが、ともかくみずからの興奮の甚だしさをよく読んだ。一応書くが、感想とはそういうものだ。
だけど、私がそれら激しい興奮によって書かれた文章を見た時と、先日ゲネプロ映像で『夏の毛になる』を実際に観た後でふたたび観客の感想文を思い返した時に真っ先に浮かんだのは〈グロテスク〉というイメージだった。〈作品〉として発表された『夏の毛になる』への感想が、内藤ゆきという個人の人生への感想になっていることを、シンプルに怖く感じたのだ。もちろん作品への言及にとどまった感想もあっただろうが、みずから調べてもいないのに私が『夏の毛になる』を作者の自伝だと認識していたことが当時の印象を持った証左である。この作品への感想が、ナイトウユキの半生ではなく内藤ゆきの半生として捉えられることは、ナイトウユキと同姓同名の作者によって書かれ同姓同名の俳優が演じたことが大きいのだろうから、観客の感想は自然なのだが。「これは自伝です」というアナウンスがあったかどうかは知らない。
私はやっぱり、作品への言葉がそのまま現実に今生きている個人の人生へ二重写にされることをものすごく怖いと感じる。そしてもし多くの部分がノンフィクションであるならば、観客がいかに〈作品として〉と意識しながら感想を書いたとしても、それは観客の意図とは無関係に、個人の人生への二重写になってしまう。何度も書くけど私の怖がりは私の怖がりでしかない。余計なお世話かもしれない、本当に。だけど、「“内藤さんに”そんなことがあったなんて」と私は素直に思ってしまった。安全な場所で当事者でもない知り合いでもない私が抱くその同情や憐憫や激励めいた祈りは、内藤ゆきさんの人生へ無責任である一点で、強い自罰を促す。せめてお前も他の観客のように感想を書けと、何もない空間から呼びかけてくる声が聞こえる。それでも、繰り返しになるけど「そうなんだ」で済ますことのできなかったのは、作品としての力だ。ポジティブなことは書けなかったかもしれないけど、私はみずからに罰を与えるようにしてこれを書いた。人生の情けなくて悲しいところばかりピックアップされたまま終了し、そしてふたたび再生を強いられる枠に閉じ込められているまるで幽霊のようなユキちゃんが、こちらに干渉することはできない。観客もみんなユキちゃんの過去の時間を見る幽霊で、我々は劇場の同じ空間に居たって舞台と客席のレイヤーを区別し、お互いを峻別する。同じ時間を過ごしていたのにね。だから、だから、私が強く意識して願うのは、内藤ゆきさんのこれからじゃなくて、作品として終わった後の、かわいいかわいいナイトウユキちゃんのこれから。それだけが手を伸ばす唯一の方法。
アースミュージックエコロジーのCMみたいな映像、俺が撮るよ。本物のアースミュージックエコロジーじゃないことだけ勘弁だけど、撮るだけなら任せてよ。あれって1カットだっけ。30分で叶う夢だよ。私の頭の中にはユキちゃんを撮影する自分の映像を浮かべることができる。これは私が、私だけの責任で、頭の中で描いている。これまでユキちゃんを知らなかった私には、これまではありえなかったけど今こうして描いてる。頭の中か外かなんて、フィクションかドキュメンタリーかよりずっと関係ないことだと思うんだ。いくよ。いいですか。ヨーイ、はい。