たくさんの屋根が見える。そのうちのひとつのアパートの二階の窓が開いていて、室内の風景がみとめられた。そこでひとりの男が自慰をしている姿があった。私は親しみをこめた眼差しを向けるが、彼は気づかない。それでいい。そういうものだから。彼は目をぎゅっと瞑っている。その必死さというのはどこか、祈りのようでもある。
目を他にやると別の家もおなじく窓が空いていて、おなじく室内が見え、別の男がおなじく目をぎゅっと瞑って自涜をしていた。その部屋の隣の窓からも、別の男が同じことを同じようにしているのが見えた。
私がそこで気づくのは、屋上から臨む街並みの数えきれない軒下の窓のうちの多くが開いていて、そこで男たちがみな同じことを同じようにしているということ。このさわやかな青空の下で、屋根の庇護に守られながら、この時間帯、みんなそうなのか。みんなそうだったのか。
なんだか屋上で神様よろしく彼らを眺めている自分の方が間違っているような気になってきた。
「ルー」と声がするので振り返ると彫りの深い顔をした西洋人の紳士が立っていて私にルー、ルー、と呼びかけているが言わずもがな私はルーではないですよ。
「ルー、僕は誓うよ──誰かにできるんだったら、僕にだってできるんだ」と紳士は私の目を見て言った。その文言にはなじみがあって、そうだ、それは、デルモア・シュワルツがルー・リードに言った言葉だか宛てた手紙だかに書いてあった、ルー・リードがシュワルツを回顧するときに印象に残っていた言葉だ。ルーと呼びかけながら、シュワルツがおそらくはみずからの鼓舞のため、もしくは何かしらの"確認"のために自己へ向けた指針をルー・リードへの言葉の形式で言ったんだ。
じゃあ目の前の西洋人はシュワルツなのか。というか私のことを教え子のルー・リードと思っているのか?
私はルー・リードの曲でもヴェルヴェッツの曲でもなく、なんというかよりによってマジジョテッペンブルースを聴いていたことがなんだか無意味に恥ずかしくなってしまう。場違いな気持ちになってしまう。
「秋元康に書けたなら、私だってマジすか学園くらい書けるはずだろ」と紳士は言った。マジジョテッペンブルース聴いてるので合ってたのかよと私は思うが口には出さない。
『夢のなかで責任がはじまる』の帯に書かれていた、シュワルツへのルー・リードの言葉が思い出された。
〈あんたは世界最高の短編を書いたんだよ。夢のなかで。〉
私はルー・リードではないのだけど、目の前にいるデルモア・シュワルツ(仮)に、ルー・リードの言葉に続けるようにして
「だからマジすか学園書かなくていいんですよ」と言った。美しい賛辞が台無しになってしまったが、私はルー・リードではない。 地上の街のあちこちから「ウッ!!」という低い声が一斉に聞こえた。そちらを振り返るまでもないが、ふと気づくと紳士の姿は消えていた。
この空の下でたくさんの別々の男たちが、しかし同時に昇天したのだ。ワロタ。