20231027

増村保造「偽大学生」感想

 原作「偽証の時」にそれまでの経緯を肉付けされているオープニングからしてある種非常にばかばかしいというか、「偽大学生て!」という気持ちがずっと消えないままではあるのだが、次第にやばいことになってくる。ことのおこりから結末まで、ノリとしては闇金ウシジマくんみたいな話なのだが、ウシジマくんは出てこない。

 監禁により監禁した側が次第に"監禁"という行為そのものに苦しめられていき、またそのただなかで「監禁したところで何もいいことがない」と気づきながらも辞めるわけにはいかなくなるという新たな苦しみが生まれて、犯罪行為であるという高いリスクにもかかわらず中身が空疎という大江文学初期に通奏する"骨折り損のくたびれもうけ"に発する、実存とは何か?の問題は映画もまたそのように訴えかけがある。だけどそれは言うなれば「偽証の時」の感想になるので、映画「偽大学生」のことを言うとすれば、主人公が偽大学生本人に据えられている点に、かれの「なぜ大学生になりすまし、またそうあり続けようとするか」という問題(それは原作にもある「なぜ監禁時に叫び声をあげて助けを呼ばなかったか?」にも通じる)へのひとつの答えがあり、かれの答弁では「親を安心させたかった」とあるが、これは表層的なことであり、端的にワナビー、"自分がなにものかであるという保証"をえたかったということだろう。たとえ学生リストに載っていなくとも、歴史研究会にてその一員であるという外的な認知をされる=それが監禁という状態であれ、彼らの輪の中にいる、ということをこそかれは望んでいたのではないだろうか。
 この切実な欲望は、大江健三郎の実存という主題にも多いに親和性があり、また、"大学生"という肩書きが歴史研究会つまり左翼的なセクトにおいては空疎であること、もしくは歴史研究会というセクトにおいて彼らがやっているのは飲み会と監禁という(勘違いもありながら)なんら革命行為に繋がらない空疎な行為であるということ、にも比喩的につながりがある。

 ラストはおなじく増村保造監督の「巨人と玩具」のラストシーンも思い出される明るくも完全なる狂気(アリ・アスター とかいって騒いでる場合じゃないんだ)で締めくくられるが、そのラストぜんたいもしくは最後のセリフには大江というよりも白坂依志夫・増村保造の作品らしいニヒリスティックで端的な示唆がある。原作にはないあのラストシーンによって、この映画が大江健三郎を原作にしながらにして、やはり増村やはり白坂の作品になっている。

クジラックス「歌い手のバラッド」感想

 漫画広告につられることがあんまりない私が久しぶりに広告にダイジェストされた漫画の断片に好ましい青春の苦味のニオイを嗅ぎ取って全話ではないもののほとんどの、つまり公開されているすべてを読んでみたところが普通に胸糞悪いロリコン漫画であったため、それでも公開されているすべては読んでみたもののエロいシーンは全部飛ばして(しまったが)読んだ。広告にあった青春の苦味は私が読んだ八話のうち第八話で、だからそれまでの七話はだいたい飛ばした。だが、飛ばしたからといってそれを理由につまらーんとは切り捨てられない。ルサンチマン的な屈折し歪んだ自己承認欲求──主題自体は手垢に塗れている、をたんたんと描いているが、たとえば主人公がネットで炎上するを知るシーンなどで、彼自身が戦慄していながらも滑稽に描写されてある。それは絵のタッチもそうだし、混乱した彼が「一旦アナニーしてみよう」と思いたち、自分のつくった曲をかけながら「がんばれがんばれ俺!」と叫びつアナニーに興じるといった展開にもある。
 こうした、主題に対してベタな展開の中にあまりにも異化的になされた演出は、形態に沿うだけの凡百の作品とはあきらかに異質でありながら、「だからなに?」と言われればそれまでの、つまりそれゆえに純度の高い異物としての印象をのこしており、私にはそれがかなり好ましく感じられた。

 また、特に後半において、キャラクターが現実世界にある曲をうたうシーンや、主人公が初恋の女の子の知られざる姿に打ちのめされるシーンで、映画であればBGM的に斉藤和義「歌うたいのバラッド」が流れる演出があるのだが、権利関係に配慮してか、「p.○○からp.△△の間の"──♪"には「歌うたいのバラッド」の歌詞が書いてあると思ってください」という注意書きが米印で枠外に付される。
 上記のBGM的エモーショナル演出を意図されながらも、実際に歌詞が書いてないと何のエモ効果もない「──♪」もまた、その無意味さゆえに革新になり損なう、純然たる異物として私の印象に強く残り、やはり期待はずれのものを読みながらにして「期待はずれ」と断じることはできなかった。意図的であるかどうかはともかく、どちらにせよ苛烈なまでの無意味さにはすごいと言わざるをえない。

20231019

認定官との再会

  何年も前だけど、私は熱心に演劇のまがいものみたいなことをやっていて、映画を今ほど熱心に作っていなかったのだがそれは当時、当時目にした映画の何を観てもつまんないなと感じていたことによる。それでもその年はこしらえた短編映画が小さくはあれど人生で初めて「グランプリ」というのを貰った年で、しかし授賞式の日に演劇のまがいものを一週間連続で公演していたので会場にいた人からの電話だかメールだかで受賞を知った。

 映画への漠然とした倦怠期であったこともありグランプリで別段やっていけるぞという自信がついたわけではなかったし、賞金よりも演劇の売り上げの方が高額だったことも私を良くも悪くも思いあがらせなかった要因になったが、それでもシンプルに嬉しいなと思った。

 ともあれ天狗にならずに済んだ一方で私の映画への“うってでるぞ”という士気が喚起されなかったこともちゃんと強調しないといけないのだが、私がささやかなれど栄光を勝ち取った一週間後に、再び映画への情熱を燃えたぎらせることになるきっかけとなる一つの作品に会うことになった。

ムージックラボで観た「マグネチック」である。大感動して泣きまくった私はひと月後の凱旋再上映でも鑑賞し、同じように泣いた。帰り道の電車で「あれは自分には作ることのできない」という敗北感の伴いながらの喜びがあった。北原和明がインディーズ映画の雄になるという確信を得たということでもないが、少なくとも当時私はこれから一本も自主映画が作られなくなる世界になったとしても「マグネチック」がある、「マグネチック」だけで構わない、とすら本気で信じていた。


 私は大好きな人を見つけるとなんとしても当の本人に会おうとラブコールをしまくるという意外なまでの積極性がある。あらゆるツテを駆使して半年後に北原和明監督とお会いした時に、私はちょうどいろんな縁でムージックラボに自分も選出されることが決まった時期で、それを伝えるとともに北原監督への敬愛を態度にしていた。


 私が思い出すのは、その時に北原監督がふと「おいくつですか?」と尋ねてきたことである。私が二十後半の年齢を応えると彼は「若いですね、僕なんてもう──」と自身のご年齢を教えてくださったのだが、それ以来私の中でその年齢はひとつの指標のように感じることになった。北原監督が「マグネチック」を作るに至った年齢までに、自分は「マグネチック」に恥じぬ作品を作らねばならない。その訓示は私を激励しながらも追い立てるようにして圧迫し続けた。その年から私はさまざまな幸福な出逢いのもと、文字通りの悪戦苦闘をし、ほとんどリセットされたような自分と映画の関係性を再構築し更新することだけをしてきた。演劇は、何人かの素晴らしい同世代の作家を知ることで──こちらは「マグネチック」とは逆の反応になるのが面白いのだが──むしろ自分の創作の基盤からは切り離すことになった。それを私はポジティブに感じている。

 ふと気づくと、私は北原監督の当時のご年齢にほとんど同じになっていて、最近ではその年齢を気にすることもなかったのだが、それでも今年製作した映画と今年製作する映画の二つの作品を眺めるときに、少なくとも「マグネチック」には恥じないものを作ることができたという自負をおぼえる。この本懐には慢心でも優越でもなくて安心がある。とりあえずは、この数年で歩みを止めることの一度もなかったことを、誰より自分が自身に認定している。このことが最も難しくまた最も嬉しいことだというのは、誰であれわかってもらえることと信じる。

 しかしそれによって指標を失った感のある私が、しかして如何に自分を激励し圧迫するべきかと悩んでいる数日の中で、ふと検索した大江健三郎全作品年表で私は、久しぶりに、本当に戦慄し燃えたのである。そこには作品の書かれた年とその当時の大江健三郎の年齢が丁寧に付されていた。私は小説家でもなくまた大江健三郎と自分を年齢において比較することの馬鹿馬鹿しさの伴う不遜を誰に言われるまでもないのだが、ともあれ私は自分の年齢時に大江健三郎の書いた作品を目にし焦燥を感じた。心を燃やせと激励するあの誰より厳しい認定官に再会したのだ。

20231017

朝森瑞季「ガラスの天使」感想

フォーマットというか展開というかが、別マガとかベツコミのそれやんけという感じなのだが、4巻もかけてやることでもないことを4巻もかけて語るというのは、それは別マガとかベツコミの少女漫画の諸作とは違う。別マガベツコミの諸作はいちいち絡まった糸を解く過程でストーリーが長くなっていくが、これはバンブーコミックスなので普通に冗長。だけど私が別マガベツコミ作品で往々に感じる「ユキちゃんより赤星くんの方がいいだろクソバカ!」とか「矢野より竹内くんの方がいいだろクソバカ!」みたいな、つまりサッちゃん対してにせよ七美に対してせよ「おまえらの行く末には不幸が待つ!」と呪詛を以て感想とするような気分にはならない。といって別に幸せも願わないが、ラストでなんか二人に幸せな未来が約束されている感じだったことに異論なしくらいの意味。それもバンブーコミックスっていうか結局成人向け漫画であることに由来するが、良くも悪くも性描写以外のドラマパートだとかキャラクターの心情は結局どうでもよくて、だから偶然であるにせよ、読後感はさわやか。他人の気持ちとかいちいち考えてたら恋なんて独善、やってられないよね。人生の厳しさを見るね。

20231016

市川準「東京兄妹」感想

 市川準は"時代の変化もしくは経年に伴って風化し消え去ろうとしているもの"にかなり強い執着があるというのが私の印象で、だけどそこにノスタルジーを見出そうとしているわけではないというところに苛烈さを感じる。
 ノスタルジーの感受というのはかつてはあったが今はないものを懐かしむ行為であって、この「東京兄妹」しかり「トキワ荘の青春」しかり、現代においてこれらの作品を観ている我々が郷愁を感じるのは、描かれている光景がすでに失われ終えた後の時点から鑑賞しているからだ。
 市川準が彼の作品で物語っているのは、そういう未来から眺める"過去"ではなくてあくまで消え去りはじめ遠くない未来に失われるであろう光景の現在進行形で、つまり映画の中でゆっくりと時間をかけて消滅の兆しだけを見つめている。市川準はその変容を肯定も否定もしない。決して歩み寄らず、だけど突き放したりはしないで、ずっと同じ場所からひたすらに見つめる。手を差し伸べたりはしないけれど、その場所からいなくなったりもしない。そして彼の眼差しはキャメラを通して観客に強いられることになる。安易な同情も投げやりな跳躍もさせず、観客にただ映画を観させる。このストイックさ……。なんて気が長いんだ。

 日本家屋(の室内)言い換えれば古くさい様式の家父長家庭の崩壊をどう撮るかということにおいて、小津に倣うのはあまりにもストレートではあるけれど小津に倣っても小津にはならないのが逆説的に小津の強靭な小津性だろうから、市川準が自分も小津になろうとしてないのはあまりにも市川準印のCMすぎるインサート連打で良くも悪くも開き直りが見られる。アングルとサイズと照明がCMのそれでしかない。冒頭からして豆腐のCM始まったのかと思ったぜ。それは繰り返すが良くも悪くもだと思う。これは映画であってCMではないが、この映画は市川準が作ったものだから。
 インサートで言えば一箇所ものすごくグッときたのは、ラストシーケンスの街並みインサート連打の中で、かなり早い段階において洋子が写真屋受付に座っているショットが挿入される。ヒロインの姿が街並みのひとつとして扱われている。あれはかなりオオーッとか思った。

 芝居シーンはa)2キャメのマルチアングル、もしくはb)ヒキ→ヨリ/ヨリ→ヒキという二種類のコンテで基本的に進行していくのだが、それ自体はたいして面白くはない。
けれども、インサート連打で「あぁなんか結局良い話というか、ふわっと終わるのか。あーこれがラストシーンだろうな。あと1、2カット入って終わりよね」とぼんやり油断したところにあるラストシーン。3カットだと思うが、時間にして20秒程度の、かなり地味であるし、かつ、あれも小津じゃんと言われればそれまでのようなオチの付け方のはずだが、私はかなり戦慄を覚えた。この映画に起きるどんな出来事より身を裂かれるような悲痛さを感じた。あのラストは何もかも凄い。
鑑みればあのラストこそが健やかなのであり、またなりゆきとしては当然なのだ。
だからあのラストのためにそれまでの九〇分があったとまで言える。
しかし、しかし……キツい。。。体感として痛い。。