20220210

プレーンソング・草の上の朝食

『プレーンソング』
 最初から最後までずっと幸せ!!さいこう!!!!
 人生の中でこういう季節が来ることを強く望むし、それは何年か前の短い時間、私にもあったような気もする。
 作者いわく「悲しいことの予感すらさせない」の意気込みが徹底されていて、すごく嬉しい。マジで何も悲しいことがない。俺はどちらかというと苦手なはずの何も起こらない(本当に何も事件が起こらない話なのになんでこんなに読んでいられるんだろうかと、疑問に思い、なんだっけなーこれ、と考えてみたところ、その読んでいる時間に感じているものは覚えがあって、「ピューと吹く!ジャガー」で時々ある、ふえ科の人たちが集まってダラダラするだけの回、あれが俺はすごく好きで、プレーンソングを読む時間にそっくりだということに気づいた。


『草の上の朝食』
続篇というものには「前作と通奏されているけど別物」「前作と地続きだけど変わっていく」というパターンが割と多いと思っていて、続編と聞くと(最初の画よければ良いほど)一旦構えてしまうんだけど、「プレーンソング」で描かれていた
悲しみの"予感"すら排除された日常みたいなものが、"続"というより"延長"されていて、プレーン
ソングの読書時間を最高の幸せに感じていた私はそれがとっても嬉しかった。
プレーンソングは前述のように悲しみや終末がまったくない時間を描いているけど、それはしかし「この幸せな時間も小説の終わりという形で物理的に終わってしまう」ことからは逃れられない。これはもう仕方ない。
 だけど「草の上の朝食」が意義深いと思うのは、その物理的な終結が、続編という形て延長されたという点だ。私はそれがとても嬉しかった。
そして、この小説にはおそらく更に続編というのはないんだろうが、「未来の予感」が描かれて終わる。続きがなくても、物理的に終わってしまっても、「終わった」とは、だからあまり悲しく思わなかった。私はそれがとても嬉しかった。

20220201

唾棄しめて今夜

 夜中は明日へのインターバルか。久しぶりに陰鬱がおれに、部屋のサイズでのしかかっている。こわいのは自分を守るために誰かをいたずらに呪詛すること。やりたくない。それがたとえどんなに嫌いなやつだとしても。

 台本なんてものを書くにあたり、自分をそこにぶつけそうで怖い時は一旦どうしたらいいのか。ていうかなんだ、台本って。台本なんてものはないに越したことはないんじゃないのか。演劇ならともかく映画に台本というのは絶対的に必要なものじゃないんじゃないのか。おれがうんうん唸りながらああでもないこうでもないと巡らしているものって、要らないものなんじゃないのか。映画の元始に失礼なんじゃないのか。

そんなことないわ。映画の元始に礼を尽くすことないわ。
そんなことないだろう。しかしながら。サレンダーな気持ちでやるしかないのだ。

 とにかく〆切が重なって、サボってるつもりはないんだけど頭の中の断片を繋げる作業がめんどくさい。この作業は創作ではない。作業だ。作業には簡素な冷徹さが要る。バイトみたいにやるのだ。それは必要だ。

 自分を台本にぶつけてはいけない。自分を、というのは「現在の自分の考えを」と言い換えられる。
 未来をやるのだ。現実を記録して過去を観るシステムをとるテクノロジーに未来を込めるのだ。切り取られた四角い画面に、その外側を予感させることをただつづければいいと思う。それが正攻法かどうかではなく、それを続けることだけでいいとすら思う。映画はね。