20230722

メロンソーダ/雛鍔と関係のない夢

 西村りっちゃんと久しぶりに会う。毎度久しぶりな感じ、別にしないんだけどそれでも毎度ちゃんと前回からの日数を数えてみれば折り曲げる指の単位は日でも週でもないね。

 我々の「会う」とはどこかへ遊びに行くでもめずいモンを食うでもなくて喫茶店で最小限のコーヒーによって何時間も粘るというのを指すのだけれど、粘りながらロマンチックな言葉とは何かねというのを今回は話した。それ前も言ってましたよと何度か指摘された。

 平日だったのに混んできたから退店せよと店に請われて、外に出たら夕方の風が気持ちよく、そのまま散歩がてらと別の街の喫茶店まで一時間とか一時間半とか歩く。何を話したろうか。夕暮れだねとか夕暮れが綺麗だねとか夏にしてはまだ涼しいねとかオレが大谷翔平だったら恋に困らねぇと思うねとか大谷翔平が考えるモテたいとはおそらく我々の考えるフェーズにはもうないとかそういう話をして、喫茶店に着くころには普段そんなに歩くことなんてないからか二人ともドッと疲れてしまった。あとからズピピも来て、ズピピは静かに文庫本を読んでいた。私は西村りっちゃんにたしか何かしら面白かった本の話をして(どうせそういうことしか話題を持ってない)、喫茶店のマスターにおもしろそうな本を教えてもらって、いつもよりは早く解散となった。


 帰り道でふと、「しびやさんは喫茶店でいつもメロンソーダを頼むんだ。だから私にとってはしびやさんといえばメロンソーダなんだ。メロンソーダを見るとしびやさんを思い出すわ」というようなことを何回か言われた時期があったことを思い出した。私はその時もその人の前できっと緑色した炭酸水を注文していて、だから言い当てられて相手の満足そうな顔に恥ずかしいような気持ちになった。その気持ちまでセットで思い出せる。

けれど、あれはいつのことだったのか、そして誰に言われたんだったのかは思い出せない。しばらく考えてみたがどうしても思い出せない。はて、私はどのような人たちとつるんで仲良しを営んでたのだったかしら。何人か数えてみても、折り曲げる指の数からこぼれ落ちた人たちがいる気がしてならない。

 いつからか、私は喫茶店に行ってもメロンソーダを注文すること自体なくなった。それもいつからだったのか。あんなに通った不二家もカフェ珈琲館も珈琲西武も巴里もトップも珈琲タイムスもめっきり足を向けなくなった。ていうかそのうちのいくつかは店がそもそも消滅した。波にさらわれた浜辺の落書きのように、洗剤に漂白されたシャツの汚れのように、まるでそんなの最初から無かったみたいに想起の限界範囲は更新されていくね。私は自分の忘却機能に全然悲観的ではないのだけど、感傷を伴わないカラカラに乾いた寂寥には時々、眺めるようにして対峙することがある。



 志ん朝の「雛鍔」を聞きながら寝たら変な夢を見た。雛鍔には少しも関係しない。

 夢の中で漫画を読んでいた。赤と黒の同じデザインで統一されたノワールものの作品で、半グレみたいな友達グループが悪さを繰り返す中で少しずつ仲間を失っていって、最後に残された主人公が鉄筋の小部屋にひとり座り込んでいる。恐る恐る見る窓の外にはパトカーや警官の群れがあって、もうすぐ捕縛されるであろうことを彼は悟っている。しかし、なぜか警官は部屋に突入してこない。なんとなく不思議に思いながらも、しかしこの歪な時間は、まもなく、あっけなく、終わるんだろうと彼は予感している。泣いたり悲しんだりはしない。

 漫画から顔をあげると、そこは実家で、身内の一人がここにはおよそ書けないような嫌な罪を犯した事がテレビのニュースで流れている。うわーっと思うが、しかし同じ部屋に当人がいる。慌てるでもなく、お茶なんかを飲んでいる。もうすぐこの家に警察がやってくるのだろうか。なすすべのない気持ちで、テレビに映されているこちらに生気のない視線を向ける身内の顔写真と、それを眺めている本人とを交互に見た。こうやって誰もがまえぶれなく終わることになるんだ、と思った。

20230715

ティルイット・ルル・リリ

 昨晩から編集作業朝まで。毎度インスタグラムで募集する「休憩中に聴くオススメ音楽」だけが楽しみ。

 朝から少し寝て、疲れの取れぬまま起きて炊飯をしたら、もう三年くらい繰り返しているはずの作業──つまり「炊飯」のやり方がわからなくなってしまったのか、炊飯ボタンと保温ボタンの意味の違いがわからなくなったのか、3合の米をただ数時間保温しただけの生米が出来上がってしまい、しかしそうと気づかず食べて、はじめて米を食べてマズッと思い、炊飯器がイカれたんだとやるせない気持ちになる。これが都市生活者の孤独だ。自分の失敗に気づいてもやるせなさは消えず、教訓はまだ冷凍庫の中で保存されている。捨てる気にはならない。百姓の家系だから。早口言葉以外で「生米」なんて使う日が来るとはね。

 午後からだらだら別の作業をし、喫茶店でつないだ映像をチェックし、修正点をノートにメモして、ということをしてたらそれが終わった瞬間にドッと疲れが押し寄せて来て、本も読む気にならず、もうダメだと思ったが、なんとか西友にだけ寄る。

 家に帰って、スパンクバングでywfwrinrinを観て、しかし孤独感はつのり、本格的にもういいやという気分で寝る。エアコンをつけずに汗かいて寝るほうが気持ちいい。

 夢では図書館に行った。
「君たちはどう生きるか」、まだ観てないけれど、「君たちはどう生きるか」のノベライズという本があって、それはなぜかタイトルが「君たちはどう生きるか」ではなく「ティルイット・ルル・リリ」という題で、青空の下の砂浜でボケっと立っている男の子と、その切り返しとして彼の視線の先に黄色い灯台が建っている二つの絵が上下に並んだ、美しい装丁であった。
良いタイトルだなと思って目覚め、自分の無意識に頼もしい気持ちになる。なにかに付けようかな。ややスッキリして風呂に行く。

 銭湯に行く途中で、近所のタイ料理屋の軒先にある排水管から水がチョロチョロと出ていて、夜道に小さな小さな水たまりを作っていた。
それを眺めていると、なんとなく、私の今日という日はこの小さな小さな水たまりに立ち止まるためにあったような気分になり、だから少しの間眺めた。これは何かの比喩でも示唆でもない。小さな小さな水たまりとは、ほんとうにあの、小さな小さな水たまりだけを指している。それが大切なことだ。

20230701

ロバート・A.ハインライン「夏への扉」感想

 あらかじめ申し上げておかなければならないのだが、私はSF小説を全然読んだことがない。読んだことがあると言ってもせいぜい──「読んだことがあると言ってもせいぜい」と書いたものの、何一つ思いつかない。ゼロってこともないのだろうが今この時点で「あれはSF小説であろう」と看做せるタイトルが一つも浮かんでこないし、わざわざ遍歴を紐解いて検証するに見合う成果が得られないのはわかりきっているので、やめる。何かを思い出すまで、「夏への扉」が私の初めて読んだSF小説ということで、もう、いい。
 私がSF小説に疎いのもべつだん苦手意識があるとか忌避してきたということではなくて、単純に他人から薦められた本の中にSFジャンルがなかったであるとか、図書館でてきとうに棚から引き抜いた本のジャンルがSFではなかった、程度の意味しかない。苦手と思うにも素地が要る。チビだった時分に読んだたくさんの絵本や児童向けの物語の中には、きっとSFだってあったろうと思う。小説に限らなくても今マジで「ドラえもん」しか思いついていない。SF(すこし・不思議)でも良いのならばであるが。
むしろというか、だから私にとって「夏への扉」は非常に幸福な出逢いで、今まで誰からも薦められなかったSF小説を人に薦めてもらったことに私は大きな意味を感じる。出逢いがなかったことは「その程度の意味しかない」という言葉で済ませられるが、出逢えたことにその言葉を使うことはできない。アンフェアであろうと私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。

 ちょっと調べたところによれば「夏への扉」は世界中の読者に支持されながらも評論家だとかSF専門家にはそこまで支持されていないとのことだが、私はいち読者であるし前述の通りSF初心者でもあるから、「夏への扉」についてSFとしていかがなものなのかという分析はできないし、また興味もない。私はとにかく「おもちおーい」と、ピノコか未就学児みたいな語彙で、つまりフレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!な気分で小説を読んだ。以下にだらだらつづける文章は、だから全文それを踏まえている。実際に松田聖子も聴いている。いま。
 資料によると「夏への扉」は1957年に発表された。舞台は1970年であり、また2000〜2001年ということになるが、つまり(2000年はともかく)1957年から展望する“1970年“というのは、フィクションでありながらもある程度こうなる可能性のリアリティを読者に違和感なく感じさせたということか。私がそれを面白いと感じるのは、コールドスリープもハイヤードガールもダン製図機もタイムマシンも発明されなかった1970年や2000年を経過した2023年に生きているがゆえではあるのだろう。私はその“結局小説のような未来にはならなかった”ことを、好意的に思う。そこにはニヒリスティックや冷笑を伴わない。小説は(そうなるかどうかはともかくとして)予言書ではない。ハインラインだってそんなつもりはないはずだ。いかに描写にリアリティを伴っているとしても、作者は「こんなこといいなできたらいいなあんなゆめこんなゆめいっぱいあるけど」の精神で未来を小説にしているのだと思う。これは「夏への扉」が図書館のY.Aコーナーにあったことから、「ドラえもん」の引用にいささかの後ろめたさもなく言える。1957年のアメリカは冷戦下であり、世界大戦直後から始まった核爆弾をめぐる国際的緊張の中にあった。国内の暮らしは(作品内の“1970年“にもあるように)家庭用電化製品や自動車の普及で中産階級にとっての利便が安定したとも言えるが、それは裏を返せば格差の拡大が如実であったということだ。そういう、おだやかさと殺伐さが表裏一体となっていた時代のムードにあって、社会的な小説を発表していたハインラインが情勢を度外視して「夏への扉」を書いたとは、私は思えない。それは小説の冒頭と結末を読めば自然に感じられることだ。ハインラインが「夏への扉」で描いていることは、清濁混じるかりそめの安寧の中にあって時代に流されずに明るい未来を想像し行動するということだろう。表題されている“扉“というのは、この小説においては(後半の展開も鑑みるに)“可能性“とかそういうものを表しているのだろうが、11+1つもある扉のどれかが夏に通じていて、尚且つどれか一つしか開けられないわけではなくて、あくまで“どれか一つが夏に通じている”と言うにとどめるというのが、グッとくるじゃあないですか。主人公は会社を仲良しの男と設立したけれども、嵌められて失敗するわけで、しかしながらもう一度会社を設立するに至る。嵌められた時と同じように、仲良くなった男を信用する形で。もしくは結婚に至らず終わった恋を、今度は結婚の形で。この形式上の反復がすごく大切で、たとえば「痛い目を見たから今度は一人で」などと主人公が思ってしまうのでは、“失ったものを取り戻すために過去に戻ってやり直す“という、タイムトラベル形式の構造をなぞるにすぎなくなるし、もっと言えば、「一度失敗してしまったら、それは結局繰り返されてしまうんだ」という厭世観みたいなものを読者の無意識に教育することになってしまう。そうではなくて、違った状況でありながらも同じ形式で反復させることこそが、「過去の失敗は取り戻せる」ことに通じる。タイムマシンもコールドスリープも存在しない現実を生きるY.A読者層が11+1の扉を、一つ二つがダメだとしても、それでも夏に通じるまで何度でも開け続けるために。何度だってやり直せる。そんなのって現実的じゃないぜと誰かが嘯いても、私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。クーラーで冷やされた部屋の扉を開ければ、ついこないだまでは寒かったのに、今度は夏に通じている。