撮影が一旦終了。制作部の完璧なスケジュール計画のおかげでつつがなく無事終わった。家で荒編集。二日で終了。30分くらいかなと思っていたが45分あって、びびる。でも必要な長さである気もしている。これ以上は切れないなと思う。翌日にはまあいいかと思うようになった。
友人のHさんより新作短篇が送られてきて読ませてもらう。新作舞台のオーディションのために書かれたものらしいが、毎度のことながら面白く読み、面白かったですと感想を送ったら「今日締め切りの原稿に追われている、陣中見舞いに来てほしい」と言われ、ロイヤルゼリーを持って家に行く。家に来る頃には終わってるはずだから一緒にピロウズ聴きましょうと言ってたが私はたぶん終わってないだろうと思っており、ついてみれば案の定作業を継続させていたから、自分も持参したパソコンで夏に撮る予定の映画の脚本を書く。途中でQちゃんに読んでもらったりしながら、まあまあ書く。四月中には書き終えたいと思うが、思っているだけかも。
Hさんの作業は3時間ほどおして、ともあれなんとか終わり、三日ぶりという飲酒をする。私は短篇の、最も心に残った部分の話をし、そこから色々と話す。最近私が読んだ大江健三郎「セヴンティーン」を、面白く読んだがめちゃくちゃグッと来たかというとそういうわけでは実はなく、つまりは身体的な自涜に耽っていたのが政治思想への拘泥に向かうんだけどもそれも比喩としては自涜ですねみたいな話に結する、それは特に広がりを感じるとかはないのではないかみたいなことを言って、Hさんはおもろかった?と尋ねると「オモロ・オモロ・オモロです」と答えるので、先の私の感想以上の先になにがあるのと聞けば「セヴンティーンが描いているのは、思想でも勃起できる、政治でもシコれるってことで、それがおもろいしあまりにも鋭い先見です」と言う。んなーるほどねと思う。
そこから私の、撮影が一旦終了した映画の話などをしていたら「しびやさんはやはり、保坂には拘泥しないほうが良いと思います。映像ではなく映画に“過去性”を見出してそれをあたかも揺るぎないものとしてしまうのはいかにもつまらないし私には無防備に思えるのです。映画というのは編集やなんやかやの力で過去の映像に現在だとか未来を見出すことができるしそのように作っているじゃないですか。それに、リリカルとは未来にしか宿らないと私は思うから。」というようなことを言われ、んなーるほどねとまた思った。虚勢でも忖度でもなく、これは結構言い当てられた感があり、尚かつ「そうよね」という確認の認識があった。
・I’s「はっぴーえんどろーる」MVを観る。歌詞が付されているのでそれを読みながら聴いたが、あのちゃんのエキセントリックさというのはあくまで端正なビジュアルと態度の差異を礎として、エキセントリックでございと、そのように祭り上げられて宣伝されているに過ぎなくて、書いていること自体はめちゃくちゃありふれているというか現代に生きているかなり多くの人間(それはあのちゃんを見て共感する、一部の孤独主義者にとどまらない)があのちゃんの感じるように感じるしあのちゃんが書くように書くだろうなという言葉の羅列にしか感じなかった。だから売れてるのかもしれないけれど。それは言い換えれば定型の中にしっかりおさまっているということで、先行している何かの模倣であって澄み切った「自分という個性」の言葉ではない。あのちゃんというのはもしかしたら思い切りがいいというのが一番の特徴で、それは身体的な面にしかなくて、要はパフォーマーに過ぎず、本人とは全然普通野、何も変なところのない人なんじゃないか。そうであったほうがいい。そう自身が思えたらいい。健康が第一だから。
とにかくあのちゃんの書いた詞には系統の先達であるの子だとか大森靖子だとか戸川純だとかの書く詞のような心の打ち方がないと思う。私がダイレクトに心打たれた「世界と自分の軋轢」みたいなものを表す歌詞とは、例えば戸川純のこんなのである。
「朝霙まじりの空が白い ねえあの家だけが火事で赤い 誰も気づかないの ああ誰にも見えないの
もう永いこと知り合いですね いつかの夏、海で花火したね 誰もうなずかないし誰も答えないの」
「ねえみんなあれを見て 青くない空を見て 煙吐く龍のような火が見える 私にだけ 精進してもどうしても見える」
多様性を認める社会であってほしいというのは私も激しくそのように思うが、認められる多様性からすらも零れ落ちるのが孤独とその苦痛であって、その孤独は「死にたい」という四文字では慰められない。生きている中や多様性の中に孤独を見出すのはいつでも自分で、自分からは死んだとて逃げられはしない。怖いことだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿