20250512

自分を復習する

「すごいね」って言われるのも「良い人」って言われるのも苦手で、それは本当に別に良い人でもなければすごくもないということを二四時間×365日×うんじゅう年、自分という身体の中からつきっきりで見ている俺だけは毎秒目の当たりにしているから。


1.

 自分はおそらく凄い人間なのではないかということを、振り返れば二十歳くらいまでは思っていたようにも懐かしむけれどもう忘れてしまった。

 それは自分に絶望したとか周りの凄い人たちとくらべて卑小さを思い知らされたということではなくて、自分の、たとえば〈才能〉とか〈運〉みたいな言葉であらわされるポテンシャルの部分に興味がなくなったということです。念を押すけどケほどもネガティブじゃないし厭世的でもない。

 もとめずに目にし耳にした先人たちの言葉の累積が俺のスタンスの土台や支柱にあるから、これは思い込みでもゆらぐオリジナルな思想でもなくて、ゆえに力強い。

 累積の中にはたとえばこんなのがある。

鈴木敏夫の「何かを作るにあたっては、自分を信用しない」という言葉。

黒沢清の「内面の葛藤はカメラで撮影できない」という言葉。

菊地穂波の「作家の才能あるなしは内容を問わず書き上げられるかどうかのみではかる」という言葉。

 いまパッと思い出せない言葉は割愛するけどそれらも累積から除かれるわけではない。

 〈天才〉という便利な言葉は本当便利に使われているが、天才という言葉の使われ方というのはむしろ〈天才じゃない〉という自らの可能性への諦めの際に多くある。

 昔なにかの脚本にこんな台詞を書いた。

「諦めるっていうのは、こんなに簡単なことなんだ。知らなかったね」

 この台詞を何に書いたかのかは忘れたし当時からそのようなことを考えて書いていたのかもおぼえてないけれど、自分がかつて無軌道に書きつけた言葉にむしろ現在の自分が影響されるようにして、最近とみによく考える。

 神聖かまってちゃんを久しぶりに聴いてて、偶然にもこんな歌詞にも出くわした。

「諦めてもいいんだよ」


 何かを諦めることほど簡単なこともない。即時やめればいいんだから。もうやらなけらばいいんだから。そして伴痛はともあれ肩の荷は降りる。

 誰しもテイのいい言い訳を見つけるのは得意なのだから、「諦めてもいいんだよ」なんて言葉、他人に言われるまでもない。


たとえば何か目指すものがあったけど環境のせいで継続が難しくなって諦める。

とか、

たとえば好きな人がいたけどフラれてしまったから恋を諦める。

とかあって、それを「仕方ないよね」とみなすのはとても簡単だし自然に見える。俺も諦める人がいたとして、一応そのような言葉をかけるだろう。

だけど俺が、前提として自分事に限定した上で定義づける〈諦める〉という行動があらわすのは、シンプルにその事柄・対象が自分にとって大切じゃなかったという事実の証明。注釈するけど良い悪いではない。

 たしか伊集院光が談志の『雛鍔』を聞いて衝撃を受け噺家を辞めたという話を聞いた当の談志が「本当は格好のつく辞める理由探してただけだろ」と言ったみたいなエピソードがあったけど、なかなか手厳しいことを言うなぁと思いつつも、この言葉の本質には、諦めることの容易さもさることながら、人生を賭してなにかに向き合うに伴う難渋を〈努力する天才〉と称された談志が、むしろ"努力する"の部分を太字にするようにして感じ続けていることのあらわれがあるように思える。


 自分の人生うちに健やかさや穏やかさを重要とするなら、なんだって嫌になったら辞めてしまえば、諦めてしまえばいいのだ。皮肉ではない。自分が大切に思っていた対象がそうでもないと分かることは、消極的に大切なものが解ることだとも思うから。

 俺自身の話をすれば、小さい頃は漫画家になりたかった。四歳からずっと絵を描くのが好きだったから。小学生のうちは小説家になりたいとも思っていた。本を読むのが好きだったから。大学生のうちは演劇作家になるのもいいななんて思ったこともあった。そういう学科にいたから。そして別々の理由から、いずれもプロになることは諦めた。ただし俺が諦めたのは〈プロになること〉なので、絵を描いたり小説を書いたり戯曲を書いたりというのは、趣味みたいなものだけど、時々やる。そして〈時々"やる"〉そのことだけが大切に思うし、"やる"人たちのことは、対象がなんであれ全員同士のように感じている。

 安部コウセイが「風とロック」に寄せたエッセイ『ロックとロック』の末尾にこんなことを書いていた。

「金や、テクニックや、知識は必要だ。それで飯食ってるんだから。でも僕は極端なところ衝動があればロックできる。衝動をなくしたロックなんて、ただのウンコじゃろがい!」


 ガチでそうだなと思う。諦める理由はひとつだが、誰に頼まれてるわけでもないことをそれでも続ける理由もまたひとつだと思うから。

 だから翻るが、俺に関して「すごいね」なんてことはない。〈えらい〉という括りで言えば具体的な社会貢献や他人のために自分を犠牲に奉仕する方こそが偉い。俺はそういうことは、本当に出来ない。



2.

「良い人」という言葉を賜るときの苦手意識の要因は、シンプルに全然良い人じゃないからで、そのことは去年くらいに、久しぶりに会ったかつてほのかに片想いしてた相手にこんなことを言われた時に確信を得た。

「シビヤくんはさ、良い人だとかやさしいとか言われることが多いと思うけどね、あなたが感じているそれらへの居心地の悪さの要因は、あなたが良い人とかやさしいとか他人に見做される行為や言葉や態度の源が〈気まぐれでやってる〉からだと思うよ」

「あなたを本当によく分かっているどうかは、あなたのことを〈気まぐれな人〉とか〈ドライな人〉とか〈冷め方の極端な人〉とか見做しているかどうかだと私は思うね。やさしくするのも、優しいからじゃなくて、ただ相手のことがその時好きだったりでやさしくしたいからしてるだけでしょう。好きじゃない人にやさしくできないタイプでしょう」

 彼女のこれらの指摘や見解のすべてが実際のところ当たっているかどうかはわからないけれど、俺は本当に(特に自分という自体へ)意志があんまりなくて、だから「こうされたら嫌だな」とかも予想ができなくて、されたことを嫌と感じてはじめて「こういう嫌なんだ?」とみずからを発見するみたいなことがよくあるし、「あなたはこうなのよん」と他人に言われたことを「そうなんだ!?」と鵜呑みにするので、これら指摘や見解も一笑に伏したりはせず、心の抽斗にしまっている。時々とりだして、眺める。


 ともあれおそらくは、とかく〈博愛〉と対極に位置するスタンスを持ってる。俺が大賞へ向ける興味や好意にはたぶん段階が五段くらいあって、原則固定されずその時々で流動する。固定される例外がひとつあるが、ここには書かない。

 俺なんてのは、たとえば興味がない人への興味のなさたるや……なのだ。これは俺が興味のない(もしくは興味を失った)人へ向ける態度を目の当たりにしたことのある何人かから笑いながらの注意すら受けたことがある。そんなやつのどこが「やさしい」「良い人」なんだぇ!!


 周りの誰を見ても、誰を思い浮かべても、「いいなぁ、羨ましいなぁ」って思う。あなたみたいに生きられたらってみんなに本気で思ってる。


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 終わりに。こういう文章を書くのは自分のことを誰かにわかってもらいたいからとかではなくて、だから別に読まれても読まれなくてもよくて、これを書くこと自体が目的で、時々こういうふうに考えたことをまとめないと元々うすぼんやりしている自分の輪郭が本当に消えてしまうと思ってるからだ。なんとなく、いろんなことがどうでもよくなることや、さようならすべてのエヴァンゲリオンみたいな気持ちの時期って、誰しもあるでしょう!