20231213

「takatobi」感想

前作「鯨波」を観た時、その凶暴さに自分の論理的思考を破壊されて語彙を失った私は白旗振りつつ苦し紛れのように「喧嘩稼業」の一節を引用する形でフィルマークスに以下の感想を書いた。


"立脇実季の映画は立脇実季の監督した映画でしか味わえない。

全選手が踏み入れ足跡だらけになっている場に立脇実季だけが一歩も踏み入れていない。

立脇実季だけが新雪の野を持っている。"


takatobi」で立脇実季はついに全編雪吹きすさぶ真っ白な世界に"物理的に"突入した。私の「鯨波」の感想文と今回のロケーションに立脇実季自身の中における結びつきはない(だろう)ので、これは私がかつて未来を予見していたことの証明といえる。もしくは……自分でも知らずのうちだが、私は未来からやってきたようだ。


 さて「takatobi」、ファーストカットはめちゃくちゃ技巧的に上手い。雪景色を横断する人影が中央から下手に歩いていくのを観客はまず目で追うのだが、そののち下手から上手へ向かうバスに気づくのに一瞬遅れて、バスと同じ進行方向に歩くさっきとは別の人物をカメラが追い始める時にようやく「こっちがキャラクターかよ」と気づくのである。最初に目で追った人物もバスもおそらく「たまたまそこを歩き走ってたから映っちゃったにすぎないんですけどね」と監督本人は笑うかもしれないが、だとすればこの見事な視線誘導は作者の恣意ではなく神様──というか、"この映画そのもの"によって設られたということになる。これは数カットのちのやばい動きの犬たちにも共通。あの犬は、撮っててテンションあがるだろうなというのがカットの尺で分かる。あれは切りたくないよなぁ。

 人影・バス・犬たちにせよ、それらは"実写映画"という、物理現象を無差別にキャメラで撮影することしかできない形態だけが許された豊かな自生性のあらわれだ。自生性の芽生えたカットがひとつでもあれば映画なんてものは私からすれば傑作認定なので、1カットめからオオーッ&クソーッという気分になる。クソーッは嘘。


 北の街を少女が歩いている。というより彷徨っている。というショットが続く。動線がうまく配列されているわけではなく、カットが変われば少女は右左奥手前とあらゆる方向へ歩いていく。だから私は"彷徨っている"と書いた。彷徨うとはそういうことだ。

 彼女がばらばらの方向へ彷徨い歩きながらに一連のシーケンスに共通しているのは、降雪激しい雪景色の中にいるということ。


──ここまで書いて手を止めるけど、私は映画の感想文を書こうと思って書き始めて、今まさに文章を書いていたのだが、な〜〜〜んか自分でここまでを読み返すと映画のショット解説みたいになってきてるというか、このままだと全シーン全カットの羅列とその分析をするに終始してしまうのではないかという予感に襲われた。私は難解な映画を解きほぐしたいのではなくて(というかこの映画は難解ではない)、映画を観て自分がどのように感じたかをこそ残しておきたいのだ。あぶない。評論家じゃないんだからおれはさ。居住いを直して続く。


 閑話休題。

この映画は、"あるひとつの出来事を思い出す"という時間、その一瞬だけのためにある。

主人公である少女が"あるひとつの出来事"を自ら望んで思い出そうとしているのか、それともふいに思い出したのかは分からない。しかしながらいずれにせよ彼女の中で"あるひとつの出来事"を思い出せないことが居心地の悪さにつながっていると思う。しっくりこない、もやもやする、判然としない、でもいい。表現はなんでもいい。誰しもあるだろうこの感覚。


 少女は8ミリフィルムカメラを持っているが、フィルムカメラというのはデジタルカメラよりも歴然と、物質として、"物理現象を撮影する"ための機械だ。もしもいつか自分が忘れても、目に映るものを撮影さえしておけば風景は物質として遺る。少女が8ミリを持って北の地にやってきた真意はわからないが、思い出せなかった"あるひとつの出来事"を思い出す という「takatobi」の肝となる感覚に対して、フィルムという物質は比喩的にも有用性が高いモチーフになる。


 では雪はどうか?雪は景色のノイズになる。フィルムの例のようにしてもっと"映画"というものに寄せて書けば、古い映画や劣化フィルムに散乱するフィルムノイズは画面に降る雪のようと思うことがある。それを踏まえ、この映画における鮮明たるはずのデジタル画面を覆う雪景色は劣化フィルムと双対にある。後景は雪雲に覆われて判然としない。ノイズの雪で前景も見づらい。この判然としなさ、そしてその中を彷徨い歩く少女は、私が勝手に看做したこの映画に流れる時間つまり「しっくりこない、もやもやする、判然としない、でもいい。表現はなんでもいい。誰しもあるだろうこの感覚」の比喩になってるではありませんか。驚くべきことにさ。

 外部記憶媒体であるフィルムが、それでも旧くなることで劣化してしまう時に降る雪がフィルムノイズだ。この映画自体が旧くなった劣化フィルムの比喩なのかもしれない。だとすればこの映画は今よりずっと未来から届いている。現在が経年劣化するほどに遠い先の未来へと高くジャンプして作られた映画。

 私の言っていることは勝手な誇大妄想ではない。こういうことを監督自身に言ってみても、「そこまで考えてなかったです」と言われるのが相場で、つまりは映画の自生性というやつで、だから私は監督の恣意を読み取るのではなくて、あくまでちゃんとすべて映画そのものに準拠しているつもりだ。

 踏まえて繰り返すが、これは遠い先の未来へと高くジャンプして作られた映画。だからタイトルは「takatobi」という。

レモンみたいな髪色で、ソーダみたいな性格の俺

 三年ぶりくらいのことだと思うけど、約一週間の休みが発生して、なんにもしないで過ごした。
ほんとは色々やらねばもあったりもしたんだけど、どれもバラシになったので、本当に何にもしない一週間だった。でも珍しく、自分も二週間くらい前からけっこう体調を崩してたので、神様の采配でしかるべく発生した休みなんだなと思った。ミッシェルとかロッソとかバースデイをたくさん聴いた。やっぱりチバ死んじゃって悲しいんだな自分は。と思った。思ってたより悲しいんだな。死んじゃって悲しいからチバの音楽を聴いてたわけじゃないけど。好きだから聴いてるだけで、それは忘れてはいけない。

 暇にあかして、ひとりでカネコアヤノのMVロケ地にアタリをつけ、確かめる冒険をしにでかけたが、やっぱりそこだった。すごいロケーションだった。こんなところがこんなところにあるとはね。私もしれっとパクろうと思った。だけど、ひとりだと感動もひとりぼっちで、盛り上げるために「オー」とか声に出したが、ひとりなので返事はなかった。わかちあえないことは良い時と悪い時がある。

 一度、それまでサシで語ることの少なかった友人と夜更けから朝の九時くらいまで話し込む日があって、なにを話したかはほとんど忘れちゃったけど、朝の九時まで語るなんてね、と思った。家に帰って眠ったら夕方まで寝てて、私はどんだけ遅くに寝ても昼には起きる体質だったから夕方になってる空の色が窓からにじんでるのを見て「はい?」と思った。だけどたくさん寝たのもあって、その日にだいぶ体調が良くなった。
LINEにて突然おすすめしてもらった曲がメチャクチャ良くて、一日中聴いた。こういうことだよなぁ!こういうことだよねぇ!というやりとりをした。これは何も言ってないようでいて、魂の確認なのだ。

駅弁とパフェーに突如興味が湧いて、ツイッターに書いたら「食べに行きましょう」とリプライあり、「突然誘ってくれ」と返したら「今日いまから行きましょう」と返信あり、突発的に東京駅まで行って駅弁を食べた。久しぶりに行った東京駅駅前は普段目にしない景色で、目がいきなり広角レンズに切り替わったみたいで脳がバグるねという話をした。小一時間寒空の下で話し込んだが、たいした話はしてない。いつか結婚することになった時、相手が「東京駅の駅前でウェディングフォト撮りたい」と言い出したら心がピンチになるねという話とか。

 ずーっと観たかった「ハニーレモンソーダ」をようやく観て、あまりに良くて、いろんな人に「ハニーレモンソーダ観た?」と言うとかなりの割合で「観てますけどあれが何なんですか」と返ってくるのでその都度いかに「おれはハニーレモンソーダみたいなものを作るのが夢なんだ!」とコンコンと語る。まだフィルマークスにアップしてない感想文は2000字をすでに超えている。まぁくだらない映画ですけど。くだらないということを軽視するのはよそうね。噂で聞いてたペットボトル落下シーンはあまりに良すぎて悔し涙に血が滲むほどだった。

 一度悪夢を見た。悪魔というか怖い夢を見た。狂人がヌッとあらわれるという類の。だけどその時、私はあまりの恐怖に背筋を凍らせながら「なるほどね、こういうことがこのように起こると"恐怖"を感じるんだ」と、マジで映画の演出のことを考えていて、というか学んでいて、だから「覚えておこう」と思っていて、朝起きて自分にゾッとした。私はもしかすると殺人鬼に迫られてもなお、「こういうアングルで人って殺されるんだな」とか考えるのか? そんなの病気だよ。映画のことを考えない時間を確保しないと映画は作れなくなっていくんじゃないの?

 私のそういう危惧のあらわれか、グルメと旅行を趣味にしようかなと最近は思っている。「そこ曲がったら、櫻坂?」の過去回を延々観るのがいちばんなんにも意味のない時間だ。でもその時間しか、映画を考えないでいられる時間がない。そんなのいやだ、おれは旅行に出てうまいものを食べる(ことに少なくとも思いを馳せる)ぞ。

スパルタローカルズをたくさん聴く。もう10000回くらい聴いてるけど、「グランジシスター」をじっくりじっくり聴いて夜中にひとり沁み入る。スパルタを大好きになって永い時間が経ったけど、まだこんな瞬間が来るのかというのに、都度おどろくし、嬉しい気持ちになる。好きって気持ちは大概老いるけど、変わらない好きもあるんだと思うから。

今日はある友人と二年半ぶりに会ってお茶をした。数回しか会ったことなく、また自分よりずっと若い人だけど、本当に尊敬している数少ないひとりなので、楽しく過ごした。共鳴するというか、シンに魂の部分で好きだなと思える人と話す時、「よく喋るなぁ自分」と呆れる瞬間がある。今日もぺらぺらよく喋った。ハニーレモンソーダの話もした。あたりまえだろ。


 私は男の子なのでエッチなものへ普通に興味があります。だけどなんかエッチなメディアにも周期的に飽きることがある。この一週間は、まぁ体調悪いのもあって、飽きてた。そんな折、インターネットをパトロールしてたら、「マニアック・フェティッシュ系」のインディーズDVDを扱っているサイトに辿り着く。どのジャケットもいかにもちゃちである。あんまりマニアックな趣味のない私だが、いわゆる"クラッシュ"はけっこう興味があり……つつ、いやエロい気分になったりはしない。耳掃除動画とか角栓摘出動画みるのと同じ気分でクラッシュものはたまに観る。今回はクラッシュじゃなくて、なんか、グラビアの人なのかAVの人なのかわからないけど、とにかく女性が、M男の人に、スパンキングやSMじゃなくてその先の、飛び蹴りを入れるとか関節技をかけるっていう(エッチな行為には発展しない)、「ボコす」というジャンルがあるというのを知って、それのサンプル映像を主に見ていた。マジでボコされてた。男の人が。本編を買おうとすると7,000円とかするようだ。いわゆるエッチな動画の7倍くらいするじゃん。さすがに買わないが、サンプルはひと通り見た。断片的だが、とにかくどの断片においても、ボコされていた。
「いいな」と思う。実際にされるのなんかいやだけど、実際にされるおそれがないからこそ、ぼんやり「ボコされるというのも時にはスッとするんだろうな」とか思う。

そういうDVDのうちのひと作品の概要欄にこんなことが書いてあった。以下に引く。

彼女の背筋力が男の背筋力を上回り、キャメルクラッチは限界を超え、男の体は2つ折りに。

『グァ〜〜〜〜〜〜』

叫びとともにその瞬間はやってきた。屈強な男が泡をふき失神、痙攣して床に倒れこむ。僕等の撮影に台本やリハーサルはない。

ただ、その一瞬に夢をかけるんだ。誰かがやるはずだった、その誰かになりたかった。

撮影後、彼女にこう言った『総理大臣よりいい仕事したね』。


宝石みたいな美しい文章というのは、どんなところにだって転がっているんだ。散歩する道端で、あなたがちょっと小石をどければ。