20230930

 大切な人が、もう元気じゃなくて、おそらくもう元気になることはない。その報せを最初に知った時から現在に至るまで、どうしたらいいのか分からなくて今も分からない。

 俺なんてのは世間から見たらどうしょもないはずなんだが、お会いするたびに毎回ものすごく褒めてくれ、お菓子を沢山くれた。

立派だね/えらいね/素晴らしいね、そういう言葉だけを頂いてきた。

 去年の金沢で、それで結局何かが変わることにはならなかったけど、それでも少しだけ映画のことを世間に認めてもらえた時、授賞式の写真を見て泣いてくれたらしい。喜んでくれた人は沢山いたけれど、泣いてくれたのはひとりだけだった。


 たとえ叶わない祈りだとしても、「元気になってほしい」と祈り続ける。いつか言おうと思って言えてないことがある。



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 以上の文章を書いたのが火曜日の夜で、しかしこれを書くこと自体が逆説的に何かを諦めているような印象を自分自身に持ちうる感じがして下書きに残したもののそのままにしていた。

 それで今日の午頃に、亡くなりましたと連絡があった。ややあってお葬式の日程に併せて

「澁谷くん澁谷くんといつも言っていたから、お別れに来てくれたらきっと喜ぶよ」とあった。

 だいたいにして他人の評価を世辞と疑う傾向にある私であるのだけど、これはきっと本当のことだ。お会いした時も、私のいない場でも、気にかけて名前を出してそしておそらく褒めてくれていた。


 誰かが亡くなったときにそれを契機にして思い出を美化するのは好きじゃないけど、思い出せる出来事のすべてにおいて私は励まされている。私の母親と同じ名前だったから、勝手ながらお母さんのように慕っています。今も。


 言わなきゃなと思いながらもあぐねていた言葉を、私は結局間に合わせられなかった。ともなって哀惜と感謝の想いばかりがある。

20230926

追い海老というバンド

2021年七月に見た夢。


 俺が今から中学2年生として編入することになった。何故?と思いつつ学生気分に戻れるじゃんとへらへら笑っていたら、お母さんに「きっと嫌なこと言われたり気付きたくないことを指摘されるんだからあまり浮かれるな」と言われる。


 さて実際に通ってみると中学生というのは思っていたより見た目も中身もずっと幼くて、なんだかバカらしくなって仲良くなるどころかサボって学校に行くのをやめてしまった。


 家でYouTubeをだらだら観ていると偶然、京都の映画監督たてわきさんが"追い海老"という3ピースバンドをはじめたことを知る。映画はどうしたんだよと思うよりもへぇ!が勝って、"追い海老"のライブ映像を何本か観る。MVも一本あって、観る。磔磔で演奏していた。それはすごいことだ。


 友達(誰だか忘れた)四人で連れ立ち居酒屋に行く。夢の居酒屋では煙草が吸える。席が埋まっていて2人ずつに別席に座らされる。おまえ中学校はどうなの?行ってねぇよばからしくなってさ。"追い海老"みた? みたみた。いいよね。

 そんな話をしているとテーブル空いたので移動する。その時、俺たちの吐いた煙が溶け合わさり、目線の高さに黄ばんだ小さい雲が偶然、できた。

俺たち「雲ができとらす」と笑った。

夢、死人に梔子

 襖をあけるといまや人気女優のKさんが、行燈で明かりをとっているだけの薄暗い座敷へ敷いてある二人分の布団の上に座っていた。彼女の夫が今日死んだ。日付が回って昨日だったかもしれない。自殺だった。Kさんは行燈の橙と闇の黒がその上でさめぎあっている浴衣を着て俯いている。
その首がゆっくりゆっくりもたげられて、こちらに向く。
 私は急な訃報に夜中ながらいそいで駆けつけた友人の家に線香をあげにきた。ワイシャツが汗ばんでいるのを感じている。友人の母に通された暗い部屋に未亡人となったばかりのKさんがいたというわけである。布団の奥に置かれた棺には白い花が供えられている。私の手にも同じ花があった。

 Kさんがじっと私の顔を見つめてから、並んだ掛け布団を少しめくりつ言う。
「今日はたくさんお喋りできるよ」
 霊前だぞと私は思うのだけど、そんなことを弁えないKさんではない。彼女が夫を愛していなかったとか、私に秘めたる想いを持っていたとかはおそらく関係なく、悲しみとその悲しみの責任の所在を自らの中に見出すことを誰よりも自らに強いられているこのたびの不条理を一瞬なり忘れるためかもしくは結果的に苦しみを打開することになるきっかけづくりか明日になればもっと自分を苦しめることになる気の迷いか、如何。
 だけど私は予感している。このあと完全にやっちゃうんだろうな〜と。真意がどうであれ人の痛切な想いは無碍にできない。

くくっと笑って浴衣を脱いでいくKさんがちいさく口ずさんでいる。
「かえるのうたが きこえてくるよ ケロケロケロケロ クワックワックワッ」

なんども繰り返される。私は黙っている。彼女の夫・私の友人はもはや輪唱が叶わない。
彼女は俯いてひとりでうたっている……。
その顔が、また私を見た………。

20230912

吉祥寺プラザ閉館

僕らあの夏の前日から楽しい未来だけ夢みていましたね

おぼえています、静岡の山道で受け取ったメール

その時のハレーション高い林のみどりいろ


いいしらせが来ると良いね

そう思った

たくさん本が読めたらいいね

優しい人が多いといいね

話し合う人いればいいね

だれかと友達みたいになれたらいいね

僕が遠投した願いが叶ったかどうかはわからない

それでも楽しいことが多かったなら良い

じっさいのところ、当日よりそれまでの日の方が楽しいことの方が人生は多い


冬のさなかを越えても僕は吉祥寺に行くだろう

今年の夏までそうだったように、ひとりで家まで帰るに戻るだけです


一度、いっしょにらーめん食べた

その後ありぇねぇほど遠い道を歩いた

たくさん本読めます、優しい人ばかりです

帰り道でそう言ってたね

こんな日がこれからもあると思っていたが、そういうわけにはいかなくかった

失ったものはないはずのただそれだけのことです

ただそれだけのことが、こんなにもさみしい

前半はかなしく後半は怖い話

 ふりかえってみればなんだか楽しかったけど同時にそれを上回るくらい悲しかった出来事があり、そんなことってあるんだと自分を対象化して平静になろうとしているそのこと自体がなお悲しい。

いちど柱立て石積む橋のこちらに私がいる
あなたを見てる

いくつも立てた柱と石積む橋の向こうに私はいて
あなたを見てる

水を打つ音がする
またあらわれる
水を打つ音がする
またひとしずく


「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」という言葉がきっと今日もどこかで誰かにつぶやかれていて、言われた相手としても「せつないね……」としか返せない。私は直接その言葉を聞いたことはないんだけども、あざとくて何が悪いの?を毎週ちゃんと観ている私としては、「そういうのが毎日のように誰かがつぶやいているんだろう」と結論せざるをえない。私が言えるのは、私は自分がこれまでとこれから先において書くなにがしかの台本で、キャラクターにその言葉を吐かせることはすまい、ということ。共感のみを喚起させるだけの陳腐なセリフだからではない。「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」という言葉の哀切さに、私自身がちょっと耐えられないということさ。何か創作をやるというのは、そこに出てくる登場人物たち全員を一人ひとりの人間として扱う責任をはらむ。いいことよおこれ、どんな形であれ。私はいつも彼らにそう思う。
もしも「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」というセリフを、必要に迫られ他にうつてなく書くことのあれば、絶対に結果逆転をうむためのふりとして使おう。

「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」という言葉を例にとる会話が今日、仕事の中でなんとなくあり、私はへらへらしていた。すべてのことは枯れ、風化していく。一億年後には現在林立している建物のすべてがない。テニスコーツの「光輪」が聴きたくなってiPodを探すも見つからない。iPhoneのサブスクで音楽を楽しんでいる自分に強い反省を促す出来事だった。iPodが見つからない悲しみよりも、iPodが見つからない状態にあることに全然気づいてなかったことが。すべてのことは枯れ、風化していく。我々はもとより我々の気持ちとか気分とはいつ・どこにあったか?それは本当にあったか?その検証と証明のためにテクノロジーたる映画をやってるというのがやってる全員の根底にある。あなたはそこにたしかにいた?どんな気分で?

 作業がひとくぎりついたと思ってこんこんと永く眠ったら、夢の中で夢を見るというのが久しぶりに起きた。母親と幼い少女が団地を臨む十八時の道路上にいる。私はその少女を知っている。近所の子だ。私は三人くらいでしゃべったことも何度もある。そんな子が、私の一度も見たことない彼女の母親(であろう女性)と連れ立って立っている。急にあたりが暗くなっていて、電灯が二人を照らしているからそこにいるのがわかる。私は直感する。彼女たちはこの世のものではない。怪異である。しかし、母親はともかく私はあの少女を知っている。だから怪異じゃない可能性がある。だけども、もしかしたら会ってない期間に亡くなって、怪異として現れたのでは?それより、もっと怖いのは、もし、私が会っていた時から既に……ずっと……。
 現在の私が夢の中の私自身にあきれることなのだけど、私は上記の「怪異の可能性高い」母娘の姿を見て、おばけかもしんねぇ!と発想し、ならば手元にあるビデオカメラだかiPhoneだかで、撮影しよう!おばけを撮影したらすごい映画になる、と思い至ったのだ。マジで自分が一番怖い。早く立ち去ればいいのに。
 そこで私がとった行動というのは、その娘を呼ぶというのであった。
Aちゃーん!おーい!」私は手を振った。
娘がやおらこちらに向かって走り出した。
その走り方は、駆け寄るとかではなくて、いきなりのトップスピード、あきらかに何かの強い意志を伴う、それは、もしかすれば殺意。
私はあわてて逃げ出す。近づいてきたことで解像度の上がった彼女の顔は青く、目鼻の位置に空洞があった。

──という夢を見た私は「なんて恐ろしいのだ、これはホラー話のネタになる」と思い、友人と喫茶店にてそれを話す。夢の話だからところどころあやふやだったりするが、ともかく聞いてもらう。知人は黙っている。こうふん気味に話し終えた私は尋ねる。
「どうだった?さっきから淳さん黙ってるけど──」
ここまで言って私は気づくのだが、目の前の友人というのは「淳さん」ではなく、そして私に淳さんという友人はいない。ずっと黙っているその人には、あるべき場所に口がなかった。

20230908

恋の視力回復

 恋はもうもく、突然周りが見えなくなって、突然周りが見えることもある。それが恋の終わりなの。今より少し前の私はもっと周りに非寛容で、好きなものより嫌いなものの明瞭度を上げることで自分の輪郭を定めていた。ずっとずっと好きだった人や、十年先も頻度の落ちずに交遊するだろうと思っていた友人たち、そういう宝石みたいな人間関係を突然終了する時が私にはままあって、それをシャッターを閉じるなんて言い方してた。遭遇の頻度や一緒にいる時間の長さで親愛は測られるものではないから、忙しくなったりやなんやらで会うこと連絡を取ることの減った人のすべてが私のシャッターを下ろした対象なんてことはもちろんない。むしろ、好きな人っていうのはさ、てきとうでいいと思う。ブームみたいな潮流はあるが、それが落ち着いたからって貴方に興味がなくなったわけじゃない。半年に一回だけ会う親友もいる。三年会ってない好きな人だっている。だからと無関心とは早計だという。

 周りの人から「優しい人ですね」「いつでも落ち着いている人ですね」と言ってもらえることが増えてきた。その都度ちくって後ろめたさの針を刺す私の本質とは優しくもなく落ち着いてもいないのだけど、そのようでありたいという強い意志を持って生きている。何人か「こういう風に他人に接したい」という憧れを抱くロールモデルの先達がいて、たとえば養老先生だとか。定期的に養老先生の書くこと話すことを目にし耳にし、それを中間試験のように自分の成績と照らし合わせる。なかなかああはなれないものだがそれでも克己する。

 ところで私が誰かに(それは性別を問わずに)ときめいている・恋をしている状態というのを目の当たりにした人は意外と少ないんじゃないのかという話を友人にしたら「割と見るよ」と返されたが、それこそフェイク、私はなかなか誰かにときめかない・恋をしない。年齢もあって心が不全ぎみ。恋をするというのは心を開くというのとは違う。心を開くというのは相手の目の前で突然寝っ転がって「チーもう寝るれち!」と叫ぶことなので、それを見たなら貴方に心の中の十枚扉のうち五枚くらいまでは開いている。


 恋とは。ここからが本題。


 夏がおそらくもう完全に終わって秋風が夏の名残の湿度に乗って窓から吹くからエアコンにお疲れ様を告げた。電気代が少しは楽になるはずだぜと一息、毎日毎日浮かんでは消える希釈された希死念慮だけはそれでも堪えて口に出さず態度に見せず、インスタグラムを開いたら、おスズのストーリーズ投稿が目に、いや脳味噌に直接、文字通り飛び込んできたんだ。まだ見ていない人は本当に見た方がいい。ストーリーズ投稿って24時間で消えてしまうんだから。夢みたいだね。

明日992153分で消滅してしまうよ。今すぐインスタグラムをダウンロードして、airi_suzumura_naxのページにアクセスして、アイコンを押すんだ。急ぐんだ。


 あなたの脳みそが受像するのはこんなジェイペグだ。

 制服?を着たおスズが直立不動をして、右手に持った白い貝で自分の右目を隠している写真。左目と口元から窺い知れる表情は、いつもながらにどこか不安げで、はっきり笑顔とまでは言えないのだけど、それでも笑っているように見える。背景には空と海と堤防。小さく灯台のようなものもある。波が光を反射してきらきらと光っているよ。そういう一瞬が静止して、永遠のように固定されている。しかしそれもたった数秒だけの許された時間だ。

一瞬かつ永遠、そんな光景に草野マサムネの声がこんなふうに響く。


君が思い出になる前にもう一度笑ってみせて


 完璧でしょうと言わざるを得ない。こんな瞬間だけは、映画も小説も敵わないんじゃないかとへこたれそうになる。たった数秒で恋はたちまち僕らの心に屹立し発光する。逆輸入的に僕らの胸にはってのが確かにあること、ってのが光る代物なんだと認識できる。それらは目に見えず耳に聞こえないが、確実にある。このドキドキだけがいつだって現在なんだぜ。

 それでさ、心の確認・恋の発光の観測っていうのはいつもたった一人の時に訪れるんだ。例えばデートをしている時だって、目の前に誰かがいる時に恋なんて現象は起きないんだ。その帰り道、緊張して思うより呑んじゃって転んでしまうアスファルトの上とか、人影まばらな電車の車内灯で窓に反射する自分の顔、その影の部分に窓外の夜街光が流れている時とか、そういう時間だけに恋は発光するのだ。


 今日の僕は520円で買える安価の不安に火をつける遊びを真っ暗な部屋でやってて恋の発光を見た。

 僕のアパートの不便なトイレに後ろ向きで立てかけられてある額縁をひっくり返したことはあるかい。何人かはみた事あるだろうが。そこには、僕がかつて自分の気ままに編集した映画のポスターがあるのさ。それは投函しないから届かない手紙なんだ。恥ずかしくはないけどまあ配慮からひっくり返してある。今度見てみればいい。その映画のタイトルは「世界でいちばんすてきなあなた」という。

 自分の立場や未来のことを省みて、女優さんとかテレビタレントさんとかを大っぴらにインターネット上で「ガチ好き」って言うのは、自分ルールでしないようにしている。モーニング娘。の皆さんへの気持ちは須く尊敬なのでアリ。そして、おスズはアリなんだ。なぜかというとお互いの職種的にこれから死ぬまで絶対に一度も逢えない僕らだから。夢みたいだねとさっき書いた。絶対に会えないだろう。どう考えてみても。叶わないとわかってるから秘めずにいられる想いもある。


 閑話休題。今日の僕は520円で買える安価の不安に火をつける遊びを真っ暗な部屋でやってて恋の発光を見た。

 おスズのジェイペグ、あの姿は、彼女に一度も出逢えずに死ぬ僕が幻視した、一度も出逢わなかったはずの彼女と過ごした景色。まるで線香。青雲、俺がみた光。

 ドキドキだけがいつだって現在とさっき書いた。このドキドキは明日の2153分には消えるだろう。醒めるように。忘れるように。現在っていう時間が今度こそ本当に思い出になる。おスズの笑顔未満の表情は、それゆえに文字にして表現できなくなってしまう。

 だからその前に。笑ってみせて。もう一度。右目を隠したあの顔で。そういうことなんだ。


 「キモ」そんな言葉で一笑にふすのも勝手だけど、誰かの気持ちや感動をあざけるのは、自分が感動した時だって所詮は程度の低いものって自分で証明することになってしまうぜ。