夏だから、ということもないのだけど、夏だから、スパルタローカルズをたくさん聴いている。夏だからということもないんだけどさ。スパルタ大好きなんだ俺。一番聴いてるよ俺。それは季節を問わずに。
最近、Apple MusicのスマホアプリでPCに入ってた音源を聴く方法をわかって、サブスクにないけどPCに入っている曲も、iPodを起こさなくても聴けるようになった。色々転送したけど一番は、スパルタの2004年のライブの音源を聴いている。「ワールド」まじでやばいテイクだこりゃって毎日新鮮に驚いている。
「ワールド」の歌詞を読解すると概ねこんなんだ。
世界の中には、個人的なレベルでの悪意があって、それによって引き起こされるミクロな悲劇がある。それは瞬発的な怒り、新たな悲劇を生みかねない火種を個人にもたらすわけだけども、猫の生きる姿を見て、自分は鎮火を選ぶ。優しさではなく、ミクロな悲劇を「ミクロな悲劇」と自覚的に見なすことによって。世界を守る行為だ。
一方で、そういうミクロな悲劇の連鎖なのか一撃の大きいことなのかはともあれ、巨大な災厄が勃発する。現実感がないというよりは、目にしている現実のリアリティが失われるような出来事──対象が良いこと/悪いことなのかは問わず、何かの出来事へ私たちは時として感動(感動というのは別にいいことばかりではない心の揺れの意味)をする──その感動の対象を非現実と言うのではなくて、無理やり「夢じゃない」と自分に言い聞かせる。「夢じゃない」のは何がか?
見知らぬ誰かが、撒いたガソリンに火をつけたことで、世界が燃えさかる光景。それを目撃した。隣には愛する人がいる。目前の大火に照らされてか、別件なのかはわからないが、愛する人の手は赤く染まっていて、硬い。その手を強く握った瞬間、目頭に痺れる感動が去来する。その感動が、a:愛する人の手へのポジティブな感動なのか、b:赤く染まり硬いことへのネガティブな感動なのかはわからない。ともあれ、欠伸をすることでその感動を誤魔化す。
このネガポジいずれにせよの感動への鎮火は、序盤の怒りの鎮火と同じメカニズムで行われている反復だが、対象がa、bのいずれかによって対比される内容はおのず異なる。aの場合はネガティブさとポジティブさの対比。bの場合は規模の対比。だけどいずれにせよ同じメカニズムの二つが対比されているから、きっちりとした反復として成立している。果たしてどっちなのか。それも含めて誤魔化すように欠伸があって、終わる。
以上が私が勝手に読解した歌詞の内容だけど、終盤「世界がゴウゴウ燃えてるよ」という呼びかけのようにも思えるような歌詞の歌われ方に、なんというのかしら、手放されるような、諦められるような、悲鳴のように内側に響く気持ちになる。音源盤だと「燃えてるよ〜ォォォオウオウ!!!」と、悲鳴っぽさが強い。ライブ音源だと「燃えてるよ〜〜オ〜〜オオオ!」と遠ざかる感じが強い。ともあれマジで目の前で火事見てるみたいだ。
上に稚拙な読解を書いた「ワールド」と、「ピース」と「POGO」という三つの楽曲について、それらから感受した感覚を映画にしたいんだよなあっていうのが、15年くらいあって、まださしてアイデアもないけれど、スパルタのディスコグラフィーの中、特に三曲に俺が共通して見出しているこの感じ。どうにか。。いつか。
「この感じ」を端的に表しているのはPOGOのこんな一節。
レールの真ん中にあった猫の死骸を都会のシャドーが伸びてきて連れ去った
ささやかな独り言は飛行機の音に揉み消された
誰かが背中にタッチして逃げる
どうにか。いつか。。。