20221213

私のこと嫌いな人が出てくる夢

 私に対して良い印象を持っていないであろう人が夢に出てきた。私の部屋に友達を連れ立ってやって来た。私は「私のことを嫌いなのに、なぜ?」と思ったが、かつてその人と幾度か会った頃に私が一度も見たことのないはしゃぎようで部屋を友人とかけずり回っておへそを出したりしていた。そんな姿を見ていると、そういえばその人が暮らした街、暮らす街、通った街、勤め先など、そのどれもが偶然私に縁深かったことを思い出した。
 目が覚めると、喉が灼けるように痛み、洟が出た。風邪、と思い布団に改めて潜り込んでから、なぜあの人が夢に?と考えてみる。その人が好き(とたしか言ってた)本をたまたま図書館で借りて、読んでいた。それでか、と思った。そういえば好きな作家も同じだった。共通点が多いというのは、「だからなんだ」ということでもあると私は知る。

20221129

下北沢ニテ

 私たちはそれぞれの体のサイズにしんどさをいっぱいに詰め込まれているようだ。体の形も大きさも違うから、たとえがそれが喜びに置き換えられても内容物の規模に上も下もない。

 ミリューのライブ観ました。感銘つまり言葉に出来ないことを無理に言葉にしないようにすれば、言えることは何もない(良かったよ のひとこと言や社会的にはそれめいいがそんなのもなんか的確な言葉でもないのだから私は私の感銘に誠実さでいたい)。
 ただ、私の行ったことのない狭い部屋があって、そこに小さな窓があって、時々窓から外の世界を見て、見なくても朝とか夕方には強い光線が差し込んできて、室内が照らされる。その時に埃とか見える映像が、私の中にあった。すべての人と断絶したって別にかまやしないんだぜ。捨ててしまったもののことは忘れるようにできているはずだから。これは音楽に照らされた私の形に伸びた影の翻訳。

20220930

ラブライフ

 ラブライフの素晴らしさの一つとして今ふと思ったことがあって、しかしながらこれがどのくらい観客に感銘として波及しているのだろうか、波及の結果として言及がされているのだろうかという疑問をもった。それは言い換えれば映画としていかほどの効果があるのかという疑問で、なぜならば映画がテクノロジーの産物である時点でキャメラが撮影して編集してひとたばの時間になった過去の光景の中のすべての意味は観客どころか作者たる監督にも分からない時というのはままあって、ままあるがそういう時は大体分からないままエーイやったれとやってしまう方がいいのだが、ともかくフィクション映画の骨子である「ストーリー」と撮影された「現実の風景」には本来的には文字通り異次元の相いれなさがある。その相いれなさの曖昧な折衷点をなすというのが成立した瞬間から矛盾し破綻している芸術としての映画だと私なんかはかぶれ気味に思うけれど、逆に言えば周到に現実っぽさの皮を被りながら現実そのものを排除されて制作されている映画の中で、"相いれなさ"が露出する瞬間にこそ映画的だ!というまさに映画でしか味わえない感動がある。そしてそこには作者の意図が介在しない。

 で、冒頭に書いた「ラブライフの素晴らしさの一つ」というのは、後半の旦那の独白における猫の運動で、なんでその猫にこんなに感動しているのかというと「この人の閾」読んであらためて「書きあぐねている〜」をまた読んでいるからなのだが、プレーンソングにおいて保坂和志が文学の潮流に対して挑んだ実験というのが、まさにそのシーン、そのショットにあるじゃないかと思い出したからだ。

保坂和志は映画にならないとぼんやり思っていた私にとっては、青天の霹靂の思いだった。

20220919

全体講評の時に高橋洋監督が「ミラキュラスウィークエンド・エセを一番に推した」と話してくださった時、私は2020年の冬のことを思い出していた。それはコロナが始まるほんの少し前、雪のチラつく朝七時、中野のベローチェで「映画の授業」を読みながら高橋監督の書かれた章に必死に赤ペンを引いていた時間のこと。

 今もキツいままだけど今よりもっと映画にまつわるあらゆることがわけわかんなくて深刻にキツかった頃だ。


 私は映画が好きで(映画が好きという言葉にすら畏れ多さを感じる)、その"映画が好きだってこと"を(変な言い方だけど)認めてもらいたさというのがやはり、どうしてもあって、それでも全然周りの誰より映画観てないし、「わかってない」ってやつなんだろうなぁ……というシオシオな気持ちがある。劣等感みたいなものだろうか。

 そういう私の作品を、私が考えるところの"巨大な映画人"のお一人である高橋洋監督に「一番推した」と言ってもらえて、こんなに嬉しいことはない。少しだけ自分の肩もんであげたい気持ちになる……

20220909

十三期

 いつかラジオでポコやんが 「家では暗いし一言も話さないですよ」と言ってたけど、いつか現れるであろうポコやんと結婚する人というのはそんなありのままなポコやんでいられる相手になるのだろうか?そんなポコやんですら笑顔にさせてしまう相手になるのだろうか?みたいなことだけを考えていた一週間が私にはある。

 最強百合カプと評される十三期の二人だが、はたして加賀がそのどちらのポコやんをもすら成立させうる相手だったのかといえば私には分からないし、最強百合カプと評していたのは所詮外野たるファンでしかない。ポコやんの、知ってか知らずか個人的な想いを載せずにあくまでメンバーの一人ないし同期(の一人)として綴られたブログに、強い自制を感じせしめられるのは私もまた外野たるファンの一人でしかないことの証明だけど、ポコやん。ポコやん。これからポコやんが、加賀に向ける時にだけ我々も頂戴できていた笑顔は、やはり本当に見られなくなるのだろうか。ポコやん。いつか現れるであろうポコやんと結婚する人には加賀に向けていたのとはまた別の顔を向けることになるのだろうか。ポコやん。たぶんこれからも いやむしろこれからこそ、「わたしは元気担当じゃん!」 の言葉をジャッジメントチェーンに込めて心臓に刺した貴方であるのだろう。そういうすべてを、加賀は分かっているんだろう。ポコやん。加賀。十三期。

かぜのひきかた

「覚書」にて、辻征夫自身がこの詩集を"後日譚つきの幼少年詩篇集"としているが、私がこの詩集を眺め終えて感じ入った感触に名前をつけるにあたりこれほどピッタリな言葉もない。
 それぞれの詩に登場するあらゆる人たちが象徴する幼年期または少年期へのまなざしとは、単純に過去を懐しむだけではなく、翻って自身の大きくなった肉体と、頑丈になった心と、経年にさまたげられる"懐かしむことの困難さ"のようなものにも向けられているように思う。後日譚とは、幼少年期以降の続く人生であって、離れながらもしかしあくまでも幼少年の持つ特有の時間に取り組んでいる。

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20220907

マツイさん、parfait氏、福山さん

 香椎さんと酒を呑むためホナqハウスへ向かっていると、前方に完全に松井玲奈さんが歩いており、しかもその足取りは重く、もしかして泣いてる?といった感じである。

やべ〜〜〜〜松井玲奈じゃん!アゲだね。などと言っているうちにホナqハウスに近づくいたところで、松井玲奈さんが崩れ落ちるように座り込み泣き出してしまった。俺たちは慌てて駆け寄り介抱する。これから近所の友達の家で呑むんですがよかったら来ますか?話聞きますよ、と言ってみるが松井玲奈さんが泣きながら大丈夫でずと言うので、心配ながらも別れた。我々はホナqハウスに到着し、ホナqに「いやー今さっきそこでさぁ」と言うとドアがドンドンと強めにノックされ、「やっぱり話ぎいでぐだざーーい」と泣き声が聞こえる。松井玲奈さんがやってきた。更にいつからいたのかどのように参加してきたかが思い出せないのだが、私が「会ってみたいな」と常々思っていたでお馴染みのparfait(今考えたあだ名・女性)が加わっていた。parfait氏も松井玲奈さんもかわいいので「まじすげー俺得じゃん。アゲだね」などと俺は思った。酒は進み、松井玲奈さんは涙の理由を語る前に楽しそうに布団で勝手に眠ってしまい、parfait氏は突然飛び出して路上でゲロを吐いたり、突然スカートとパンツを下ろして「私はペニバンをしているから大丈夫なんだ」と笑い出したり(本当にペニバンをしていた)と、独特な酔い方をしていた。

 夜が更けて朝になり、松井玲奈さんを起こし「もうお開きですよ」と言うと彼女はノロノロと起きた。私はその顔を見て、「てゆーか半田さんってまじで松井玲奈さんに似ていたんだな」などと半田さんの顔を思いだすが、これを書いている今思えばむしろそのときの松井玲奈が完全に半田さんの顔にそっくりになっていて、実際の松井玲奈さんと半田さんというのは類似点のない全く別系統の完全なる他人とは言わないまでも別に特別ソックリでもないのだが、しかし私はその半田さんみたいな顔の松井玲奈さんを「松井玲奈さん」と見做していた。そこで私は寝ぼけ眼の松井玲奈さんに「この写真見てくださいよ、この子松井玲奈さんに似てませんか?」と半田さんがバイクに乗っている写真を見せる(そんな写真は実際にはないし半田さんはバイクに乗らないのだが)。松井玲奈さんは寝ぼけ眼のまま写真を見て、特になんの感想もなく俺に写真をよこしたが、その時あげた顔はほとんど完全に半田さんであった。

帰り道、「松井さんも西荻に住んでるんですか?」と尋ねると「そうだよ〜」と彼女は答えた。じゃあまた呑めるなと俺は思った。

駐車場?にさしかかると松井玲奈さんは紫色みたいな濃さのピンク色をしたバイクを持ってきた。2ケツしようと言う。芸能人なのに見つかったらどうするんだろうと俺は思うが、人生初めての2ケツを体験する。松井玲奈さんの細い腰に腕を回しながら、俺は時速60キロのスリルと共に、恋の予感を感じていた。

 家に帰ると(なぜか実家だった)、福山雅治さんとイトコ姉弟がいて、しかしもう帰るところだと言う。あなたも送って行けと親に言われ、なぜ?と思いながら、表に停めてある車に乗る。運転席にイトコ姉が座っている。福山さんが運転しないんだとややウケてしまう。発車した車の後部座席で、さっきまで松井玲奈さんと2ケツした景色がさっきと同じくらいのスピードで窓の外を流れていくのを見る。バイクではあんなに風を感じたが、車では何も感じない。そんな安全性と虚無を感じてふとよぎる。これ夢か?夢じゃないよね?夢か今日は本当に楽しかった。マジで現実であってくれ。parfait氏とも松井玲奈さんともせっかく出逢えたんだから。夢じゃないよね?昨日何してたっけ。やべ、穂波と呑んだな。今日のこれ夢か?いや!いや!

20220902

ダンプスターガール

 ダンプスターガールを聴いて、うわっいいなっていう気持ちになる。
 深く感じ入ってから一拍遅れて不思議に思う。
 やっぱり洋楽つまりは外国語歌詞って全然何言ってるか全然わからない。それにダンプスターガールなんて1分もかからず閃光のようにふっと光って気づくと終わっている。あっ、いいなと思った瞬間に、味わってる途中で、終わる。
 インストとは違って歌詞つまり言葉/言語が"味わい"に一定比重を占める曲に、その歌詞つまり言葉/言語が全然わからないのに「あっ、いいな」と思うのは、普遍的でありながら改めてどうしてなんだろう。
 旋律なのか?それもある。リズムなのか?それもある。語感なのか?それもある。他言語を解さない解せないとき、もしかすると私たちはその状態のときだけ、音楽を音楽として耳にしているのかもしれない。ドントシンクフィール状態に在れるのかもしれない。こうした経験を以って、「わからないこと=悪い」「わかること=良い」のではないという言説を提出する。



20220831

2022.8


8月二週目

 何か作らねばという気持ちがないわけではないが、やる気が起きない日々。しかしそこに焦りはないので、ちょっとゆっくり色々身の回りのことやってみようと思った。生活のことを。
 一日の大まかなスケジュールを決めてそれの通り生活する試みと、二〇時以降は食べないというダイエットに挑戦する。来月は人前に出るので、さすがにちょっとは痩せておきたい。

ブラックバラエティ再熱、食わず嫌い再熱、ジョジョ再熱、ジョジョ実写も観たけど劇場版はつまらなかった。脚本が悪すぎ。
比べて、NHK「岸辺露伴は動かない」は最高だった。第二話まで観る。第二話最高。

「(500)日のサマー」を観る。オープニング曲がめっちゃ良かったが、オープニング曲以外ぜんぜん何一つ良いとは思えなかった。なぜ皆あんなに好きなんだろうこの映画を???

 西友でたまたま見かけた石鹸ウタマロを購入したので、職場に持って行ってるナインチェのトートバッグとショルダーポーチをはじめて洗う。めっちゃ汚れが出る。こんなに汚いのか。何度も水洗いした後に、ダメ押しの洗濯機。Mさんより誕生日プレゼントに賜ったペドロコスタ「動く、見る、待つ」を二章まで読む。誠実さ という言葉が出てきてオッ!と思った。面白い。ためになる。BGMにはジュニップ「Don't let it pass」、CAN「ビタミンC」。

 イチローのプレー動画見てたら朝になってしまう。不眠は半年ほど悩んでいる。枕をニトリで490円で買う。眠れると良いけど。


8月三週目

 ある夜に珍しく連絡があり、Hさんと久々に二人で会った。同じ街に住んでる我々だが、二人で会うのは本当に久しぶりだった。
「もう今日しか会えるチャンスないと思って」とやつは言った。来週に控える公演に向けて毎度のことながらやつれていた。今日もこれから作業地獄ですと言っていた。
 私たちは二人で会うことがあんまりなくて、二人で会う時はだいたい仕事の話や真面目な話をする。三人以上で集まる時のくだらない話はあまりしない。その日は珍しくお互いの仕事の話をしなかった。くだらない話もなかったが。

 短い時間の中で、私たちが話したことは
深津篤史 『うちやまつり』
西尾佳織 『ヨブ呼んでるよ』
佐藤友哉 『子供たち怒る怒る怒る』
阿部和重、柴崎友香、村田沙耶香、メルヴィル、そして何より島田荘司 『占星術殺人事件』について。

『占星術殺人事件』 で島田荘司が描いたあまりにも切実な皮肉と他者への視線、ブクログに書いてあった最悪な感想、趣味が違う私たちが同じように信じる誠実さの方向。

 私たちは──それは我々に限ったことでなく普遍的な意味での"私たち"だが、私たちは、いつかどちらからともなく生活におけるお互いの比重が減るのかもしれない。私の人生における他者とはいつもそのようにして疎遠を繰り返してきた。
決定的なエピソードに欠ける、さよならのない別れ。だからこそ、というのではなく、しかしながらという接続詞で以って、私たちは誰かと一緒に時間を過ごす。またお勧めの本を教えてもらった。図書館で借りる。

20220818

そんなものか、人生なんて!

ある夜に珍しく連絡があり、穂波さんと久々に二人で会った。
同じ街に住んでる我々だが、二人で会うのは本当に久しぶりだった。
「もう今日しか会えるチャンスないと思って」 とやつは言った。
来週に控える公演に向けて毎度のことながらやつれていた。
今日もこれから作業地獄ですと言っていた。

私たちは二人で会うことがあんまりなくて、二人で会う時はだいたい仕事の話や真面目な話をする。三人以上で集まる時のくだらない話はあまりしない。

その日は珍しくお互いの仕事の話をしなかった。くだらない話もなかったが。

短い時間の中で、私たちが話したことは
深津篤史 『うちやまつり』
西尾佳織 『ヨブ呼んでるよ』
佐藤友哉 『子供たち怒る怒る怒る』
阿部和重、柴崎友香、村田沙耶香、メルヴィル、
そして何より島田荘司 『占星術殺人事件』について。

『占星術殺人事件』 で島田荘司が描いたあまりにも切実な皮肉と他者への視線、ブクログに書いてあった最悪な感想、趣味が違う私たちが同じように信じる誠実さの方向。

私たちは、それは我々に限ったことでなく普遍的な意味での"私たち"だが、私たちは、いつかどちらからともなく生活におけるお互いの比重が減るのかもしれない。私の人生における他者とはいつもそのようにして疎遠を繰り返してきた。
決定的なエピソードに欠ける、さよならのない別れ。
だからこそ、というのではなく、しかしながらという接続詞で以って、
私たちは誰かと一緒に時間を過ごす。

またお勧めの本を教えてもらった。図書館で借りる。

20220805

青空娘

 ただ現在目の前にいる人を普通に愛する、そんな簡単なことがどうしてできなかったの?という質問があって、その答えが「あの頃は若かったから」というのは、つまり未熟だったということであり、それは言い換えれば何かしら筋の通った理屈や納得できる理由があるのではなく"誤った"にすぎないということだ。しかしそんな気軽な誤りからすら血縁というものは生まれてしまい、血縁というのは非常に強力な絆である。


『リーガルハイ』の子役の話(私はあれがリーガルハイで一番好きなのだが)とオチが同じなのでもしかすると古沢良太は『青空娘』を下敷きにあの話を書いたのかもしれないが、いずれにせよこの"手を離すことによって他人になる"というのは"絆"を美しいものではなく呪縛であると見做して幸せのため問題解決をするのでは間に合わない、というひとつの世の理を示しているのかもしれない。


 絆を断ち切ること、繋がれた手を離すこと、他人になること。そうやって生きていく。

青空はいつも綺麗だけど別れを告げる。

想い出はいつもキレイだけどそれだけじゃおなかがすくから。


https://filmarks.com/movies/36630

20220731

2022.3〜7

3月
ファムファタールMVの準備と排気口新作公演ティザーのための短編映画「電話」の製作期間がモロ被りし、てんてこまい。
更に肉汁サイドストーリーと排気口の舞台映像を撮影しに行くのも重なって、休みが全くない状態になる。
ピンチ!ピンチ!ピンチ!の連続だったが、それぞれの関係者の尽力によって乗り切る。本当に記憶がないくらい目まぐるしかった。更にコンペの締切もあって、大変でした。

4月〜5月
うってかわって閑。やっと会えたね閑という感じ。
久しぶりにちゃんと読書。
ものづくりブランド「おもいでのはとば」のグッズ撮影をする。
排気口「後ろに近づく淋しさ以外は」舞台映像を編集。
ミラの試写をする。
カナザワより連絡あり。救われる。

6月
読書。小説を書く。2章まで書いて、ゆきづまる。この後の展開は大雑把には考えてあるのだが、いまいち気が乗らないのだ。
h1という機材を購入。

7月
排気口新作公演のティザーのため、短編映画「悲しみの果てに何があるかなんてアロエは知らない」を作る。今までの短編で一番苦労した。苦労したというか、何もスジが思い浮かばず、タイトルになっているダジャレだけが頭にぼんやりとあった。というかそれしか手持ちのカードがなかった。
戦争 をテーマにするということだけがお題としてあったので、山中貞雄の出征について偽史をでっちあげるかぁ…と〆切もキャストも決まってしまったところでようやく腰を上げ、2日でシナリオを書く。撮影も歴代一しんどかった。言い方が悪いが、エネルギーがなかった。それでもなんとかエイヤッと撮ったけど、あれはもう味わいたくない。思い返すと普通に体調がめっちゃ悪かったんだと思う。調べたらブレインフォグという症状だった。
完成した作品は、周りに「これまでの短編で一番よかった」と言ってもらえた。個人的には、h1のテストを兼ねていたので、h1がかなりいい感じに使えることがわかり、それが収穫だった。
iPhoneで音を録るのはもう卒業だ。

アロエ完成後すぐ、りっちゃんとカナザワ上映用のミラの整音。知らないことが多くて反省。整音についてはもっと勉強せねば。

20220724

三十歳

うるせ〜〜!!!!!!知ら
ね〜〜〜〜!!!!FINAL
FANTASY
なのである。死にて〜と嘯く二十代までを超えて、三十歳になるということは、死にて〜とかではなく、
うるせ〜〜!!!!!!知ら
ね〜〜〜〜!!!!FINAL
FANTASY
なのである。脳が灰色になって、カチカチになって、感情の振れ幅が狭まっていく感覚。

うるせ〜〜!!!
!!!!知ら
ね〜〜〜〜!!!!FINAL
FANTASY


『三十歳 (岩波文庫)』 インゲボルク・バッハマン 
https://booklog.jp/item/1/4003247213

20220711

恋は光

 この映画を観た後に「殺彼死彼女」の予告編をなんとなく観たら予告だけで泣いてしまって、あの映画にあるような逼迫した何かはこの映画には無かったなと思ったが(この映画には無くていいのだ)、しかしながらやはり小林敬一監督の「殺彼死彼女」に通底するものはちゃんとあったよなと思って、その正体はなんなんだろうと考えていたときにふと市川準に似ているというようなことを思った。そしてそれで腑に落ちた。

 市川準は名刺に「人を見るよろこび」と書いていたらしいが、小林敬一の映画にもそれがある。何かと言えば"まなざし"であって、誰かが誰かを眼差すという視線劇の意味ではなく、抽象化された広義の眼差し、つまり「誰かが誰かを想って生きること」と、誰よりも監督がキャメラの手前、つまりキャラクターに対して観客と同じ距離から、キャラクター達のことを、いたずらに接近はせずとも決して目を逸らさず突き放さずに、ただじっとまなざす。その姿勢なのだ。

西条の後ろ姿への長回し、

幕切れの後の宿木、

東雲のラストカット、

随所に配置される北代の無表情。


 市川準もだが小林敬一も人を信じている。

いつだって変だよとかくだらないよと他人に言われることにこそ真剣で取り組む姿の、ある種の滑稽さにだけ宿る光があるから。

20220710

ニッキ/こたべ

/ニッキ
私はニッキの味も好きだし
ニッキという文字の並びも好きだし
ニッキという発音アクセントも好きだし
漢字表記にしたら親しみを覚えるし
とにかく好感を覚えるのだ
"ハッカ"もそうなんだが。

/こたべ
「こたべ」と「生八ツ橋」の違いはわからないけど、
こたべという文字の並びも好きだし
こたべというフォントも好きだし
こたべのパッケージも可愛いし
なによりおいしかった。うれしかった。

20220707

ボトルレター

 天の川のほとりでボトルレターを拾った。

中身をあらためると以下のような文章が滲み震える筆跡でもってしたためられていた。


脚本なんとか書き終える。

脚本というのは結局、ああでもないこうでもない、あれもあかんこれもあかんと頭を散々悩ませたすえ、(しかしもちろんそれが重要なのだけど)

いざ書くとなればエイヤッといきおいに任せて書いて、撮影行為の中で適宜変更すればよいのだ と、未来の自分に託す手紙のようなものであるので、とにかく「書いた」 「書けた」というその一点のみを以って、私を労い肩を叩きトマポークヴェーゼのひとつでも放って欲しいとそう思う。隔てながらにして繋がっている夜空に。

20220527

柴田聡子「夕日」

 柴田聡子「ぼちぼち銀河」、やっぱりというかさすがというか、今回も素晴らしかった。

「夕日」という曲があって、元タイトルは「テラハ」という曲だったんだけど、歌詞の加筆修正のうえ収録されていました。私は"テラハ"というタイトルが好きだったけど、まぁそれは仕方ないのでしょう。

 この曲本当に好きで、うまく説明できないけど川上弘美読んでる時みたいな危うさみたいなものがあるように思う。
 並列される微妙に歪な風景の描写と白けてるのかどうなのか難しいラインの感慨の羅列の連末に付される「へー、〇〇もここに住んでいたんだ」というパンチライン。住んで"いた"という表現に見られる営みの過去性とそこを"今"訪れている現在性の同居、そこがあやういように思う。

20220331

文化荘文化大賞2021

本年度文化荘文化大賞が以下の通り決定いたしました。


◯大賞

 舞城王太郎「淵の王」


◯大賞最終候補

 保坂和志「プレーンソング 草の上の朝食」

 庄野潤三「静物」

 三津田信三「怪談のテープ起こし」

 SACOYANSGasoline Rainbow


◯選考ノミネート作品

 倉里晴「訪問者」


 波世側まる「コメント欄には貴族の娘とかいっぱい書いてありました。」


 舞城王太郎「淵の王」


 JR東日本「スイカ&ライチウォーター」


 MOONSTAR「ジャガーエースG


 大江健三郎「人間の羊」


 Sweet TripDarkness


 親愛なるQに捧ぐ「神様」


 三津田信三「怪談のテープ起こし」


 マーゴ・ガーヤン「The Hum


 滝口悠生「死んでいない者」


 Family Mart「今治タオル」


 香椎響子「君はごめんが言えない」


 庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」


 庄野潤三「静物」


 保坂和志「プレーンソング 草の上の朝食」


 けらえいこ「西反


 EMERALD FOUR「天国から離れて」


 SACOYANSGasoline Rainbow


 OGRE YOU ASSHOLE「また明日」


 PSYZWomanS


 金属バット「伊佐坂先生の異世界転生本」


 ジェラルド・ウェイのライブでモニターに映る自分達に気づくファンの皆






選考者:ワンダフルデイズモーニング、静谷静一、志水あみ、あさくらなおき

選考日:2022331

選考会場:ドトール西荻窪南口店




◯選考者コメント:ワンダフルデイズモーニング


 今年度は過去の中で最も早くその選考が終了した。しかしそれは純然なる喜びに満ちていたのかというと、そういうわけでもない。少なくとも私個人の見解であるが。「淵の王」が圧倒的すぎた。これまでの私(達)の価値観を揺さぶり、激励し、希望を与える。これからの人生に大きく影響する。そういう作品であった。ゆえに、「淵の王」が出てきた時点でほとんど大賞は決まってしまったと言っても過言ではない。そのことが純然たる喜びに満ちていたわけではないと私が申し上げるのは、つまりその圧倒的感動によって、他のノミネート作品がどうやっても勝てなくなってしまったからである。そのことは他の作品の低さというニュアンスを持たない。それがもどかしいのである。少なくとも大賞最終候補に並んだ作品群は、例年ならば大賞を獲るにしかるべきである。



◯選考者コメント:志水あみ


 人生に影響を与える作品というのはそう何度も出逢えるものではない。「淵の王」はその一点において大賞に相応しく思った。むしろ我々が苦心したのは、ノミネート作品群から最終候補を選出する段階にあった。決着のついた後の選考のような作業には、どこか出来レースを行なっているんじゃないかという自己嫌悪に近い後ろめたさがなかったかといえば嘘になるが、しかしむしろ最終候補の選考こそが豊かな時間を我々にもたらしたようにも思えるから不思議である。前年の例を出すまでもなく「我々は今年度もたくさんの素晴らしい文化に触れたのだ」という極めて原始的な感動があった。個人的には、鑑賞という行為において恐怖を感じることがほとんど不能のニュアンスで稀な中、はっきりと「これは怖い」と思った唯一である「怪談のテープ起こし」が強く印象に残っている。



◯選考者コメント:静谷静一


 大賞である「淵の王」のことは他の選考者が語るであろうし、そうでなくとも今年度の文化大賞において「淵の王」について語ることはあまり意味を成さないように思える。「淵の王」以外の作品について語ることこそがこの文化大賞には意義深いのではないだろうか。「プレーンソング 草の上の朝食」は、二つのどちらか一方を選出することは無意味であると思われたので、講談社文庫「プレーンソング 草の上の朝食」その一冊が一つの作品としてカウントされた。逆に「静物」については、私は「プレーンソング 草の上の朝食」と同じように、作品集である新潮文庫「プールサイド小景・静物」をノミネートしても良いように思ったが、その中の「静物」だけが選出された。この二つの事案は面白いと私は思うし、そのことと大賞である「淵の王」を結びつけることは可能であると思う。これら三つの候補作が選ばれているのは通底する理由があるだろう。しかし、やや複雑になるが、我々の中に通底するナニカに、この三候補作品が同じようにヒットしたということである。それは我々の今の気分や嗜好と言い換えることもできるかもしれない。そう考えれば、(この文化大賞における)選考などというのはわりにいい加減な行為に思える。やはり権威などはいらないのだ。



◯選考者コメント:あさくらなおき


 大賞が決まってからの時間が長かった。集まってすぐに大賞が決まったので今回は楽だったと思ったが、そういうことでもないっぽかった。


20220301

いいことがもうれつにやってくる

「──やめにしようや」と俺は思ったんだ。

 小春日和ってこれだなぁっていう暖かな陽気が今日の、東京の西の方には少なくとも、広がっていた。空は喩えるまでもなく青くて、それだけだけどまるで笑ってるみたいだった。

 今日はダチンコが朝から家に来た。ふたりして力をあわせて作業しないといけないことがあって、それをセッセとしながらも時々、「そろそろ休憩すんべ」なんてどちらともなく言って、窓を開けたり、それも物足りないと部屋から飛び出して散歩とも言えないくらいの近所ウロウロをかましてみたりした。
 「ほんと気持ちいいですね」と俺たちはまたどちらともなく言って、言われた方もおんなじ言葉を返した。こんな気持ちの良い日に交わす言葉はおんなじ言葉ばかりだった。

 遅くまでかかるかなと思ったけど予定よりずっと早く終わって、彼は家路へ俺はまた別の仕事をしに、同じ電車に乗り込んだ。窓の外には夕暮れの、建物に照る黄色とオレンジの中間の色があって、その群れの向こうにはやっぱり青い空があった。

 夜になって、"別の仕事"も終わり、帰り支度をしながら携帯を見たら、モーニング娘。14期メンバー森戸知沙希さんの卒業がアナウンスされていた。
 俺はほとんど反射的に「うわーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」とTwitterに書き込んで、その津波のような怒涛の──"怒涛の"と書いてみたものの後の続かない、甚しさしか形容できない名無しの驚きののち、脱力感に似ていて違う、似非もんの虚脱に襲われた。
 似非もんの虚脱は俺のリュックの中に潜り込んで、そこから顔だけ出して俺のトボトボ歩きの速度で遠ざかる街を眺めていた。
「ね、ね」と似非もんの虚脱が言った。
「なんだよ」と俺は振り返らず言った。
「きれいだよ、見てごらん」似非もんの虚脱。
「とくべつきれいなわけじゃないよ、普通だよ」俺。

「今日あったかくてダウンジャケット着なくてよくなってうれしかったよね」
「そうだね、だけどどうだっていうんだ」
「どうしたの、疲れてるの」
「お前に言われたくないよ、お前が背中にいるからだよ」
「本当?……それじゃあ、ごめんね。ごめん。ごめんね。」
「いいよ。いいから、黙っててよ」
「でてったほうがいい?」
「出てってくれよ、もう今日はいい気持ちでずっといたかったのに」

 (無音)

 俺がリュックを見やると、似非もんの虚脱はいなくなっていた。そして今歩いてきた道の少し向こうに、似非もんの虚脱の後ろ姿があった。
 似非もんの虚脱はカービィみたいな短い手足をよちよち動かして、毛玉みたいな体を揺すって俺から遠ざかっていた。その後ろ姿ははっきりと落ち込んでいた。
 俺はすごくすごく"さみしい"と思った。悪いことをしたと思った。謝って、何を謝るのかわからないけどともあれ謝って、ヤツを抱きしめて、またリュックに入れてやりたいと思った。
 だけど似非もんの虚脱を追いかけようとしてもそちらに足が動かない。見えない壁があるみたいだ。どうしてだよと少しの時間考えると、もしかしてという心当たりをひとつ見つけた。

 俺の足を止めるものの正体とは、「とりかえしのつかなさ」というやつなんじゃないか。
時間が不可逆であるように、覆水が盆に返らないように、ちぃちゃんがもうすぐ卒業するアナウンスが公式に発表されるように、不用意だとて突き刺してしまった言葉の矢がもう相手の胸から抜けないように、つまりは「とりかえしがつかない」という"それ自体"が、俺に似非もんの虚脱を追いかけることを許さないのではないか。

 だから俺はどうすることもできなくて、小さくなっていく毛玉の後ろ姿をただ眺めた。
 どこに行くの?
 もうあらゆるお店はどこも灯りを消しているのに。「似非もんの虚脱」なんて何だかわからんもの、誰も家に迎え入れるわけないのに。
 どこに行くの?
 ほとんど泣きそうだった。
 それでもう仕方ないから、乗ってきた電鉄の反対方向に向かう電車に乗って、家に向かった。だってしょうがないじゃないか。そうだろう。

 電車の中で考えた俺は。揺られながら。それは正確には"考えた"よりも幼い、"思い浮かべていた"みたいなことだったが。
 その"思い浮かべ"の末にたどり着いた言葉というのが「やめにしようや」というわけだ。

 やめにしようや。ではなにを?
 うじうじすることをだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 マジで一旦森戸知沙希さんのことで言えば、「せつね」とか「さみし」とか俺たちが思っちゃうことはマジしょうがないわ!!!!!!!!そらそうだろうよ!!!!!!!!!なぁ!!!!!!だろ?!?!!!?!??!?!!!?でも、そのことをじゃあさいつまでもいつまでもうじうじこねくり回してなんなんだね?!?!???!!?!!??!???!!?!?無理矢理「おめでとう」を言う必要もないかもしれんけど、いいじゃん!!!なぁ!俺らの感傷は"それはそれ"じゃん!!!!!!!!!!な!なぁ!?なぁよ!!!なぁて!!!!!!!!
 やけくそじゃないんだ。普通に健康的にそう思うって言ってるんだ。

 もっと楽しいことを考えたり感じたりする方がいいし、もっと楽しいことを考えたり感じたりしたいと俺は思うんです。
 たとえば
「あったかいね〜」がいいんだ。
「あったかいのに……」じゃなくて、
「なんであれあったかいね〜」がいい。せめて。

 たとえば
「恋っていいよね」がいいんだ。
「恋っていいって言うけどさ……」じゃなくて、
「なんであれ恋っていいよね」がいい。せめて。

 なんかいつまでもいじけたりニヒリスティックに浸っているのってマジでしょんべんくさいっていうか子供っぽいっていうかだせぇっていうかヒロイスティックっていうか痛々しいじゃん。哀れだよ。哀れだけなら良いと言うか必死こいて結果その実態が哀れだとしても「哀れです…」って自ら標榜するのは哀れを通り越して滑稽だよ。
 ことわるが怒ったりはしてない。
 ピエロになろうとしなくていい。誰も。そう言いたい。
 ピエロをやるのは楽なんだろうけど。

 とにかく「ウジウジ」したり「哀しみぶっ」たり「悲観しようとして悲観」したり、しなくていいんだ。誰も。そう思う。
 ちぃちゃん卒業さみしい。以上だ。
 似非もんの虚脱よごめん。以上だ。
 今日ほんとあったかかった。うれしい。
 恋でもしたいっすね〜。春だし。
 いいことがもうれつにやってくる。
 いいことがもうれつにやってくる。
 いいことがもうれつにやってくるんだ。マジで。誰しも。

20220210

プレーンソング・草の上の朝食

『プレーンソング』
 最初から最後までずっと幸せ!!さいこう!!!!
 人生の中でこういう季節が来ることを強く望むし、それは何年か前の短い時間、私にもあったような気もする。
 作者いわく「悲しいことの予感すらさせない」の意気込みが徹底されていて、すごく嬉しい。マジで何も悲しいことがない。俺はどちらかというと苦手なはずの何も起こらない(本当に何も事件が起こらない話なのになんでこんなに読んでいられるんだろうかと、疑問に思い、なんだっけなーこれ、と考えてみたところ、その読んでいる時間に感じているものは覚えがあって、「ピューと吹く!ジャガー」で時々ある、ふえ科の人たちが集まってダラダラするだけの回、あれが俺はすごく好きで、プレーンソングを読む時間にそっくりだということに気づいた。


『草の上の朝食』
続篇というものには「前作と通奏されているけど別物」「前作と地続きだけど変わっていく」というパターンが割と多いと思っていて、続編と聞くと(最初の画よければ良いほど)一旦構えてしまうんだけど、「プレーンソング」で描かれていた
悲しみの"予感"すら排除された日常みたいなものが、"続"というより"延長"されていて、プレーン
ソングの読書時間を最高の幸せに感じていた私はそれがとっても嬉しかった。
プレーンソングは前述のように悲しみや終末がまったくない時間を描いているけど、それはしかし「この幸せな時間も小説の終わりという形で物理的に終わってしまう」ことからは逃れられない。これはもう仕方ない。
 だけど「草の上の朝食」が意義深いと思うのは、その物理的な終結が、続編という形て延長されたという点だ。私はそれがとても嬉しかった。
そして、この小説にはおそらく更に続編というのはないんだろうが、「未来の予感」が描かれて終わる。続きがなくても、物理的に終わってしまっても、「終わった」とは、だからあまり悲しく思わなかった。私はそれがとても嬉しかった。

20220201

唾棄しめて今夜

 夜中は明日へのインターバルか。久しぶりに陰鬱がおれに、部屋のサイズでのしかかっている。こわいのは自分を守るために誰かをいたずらに呪詛すること。やりたくない。それがたとえどんなに嫌いなやつだとしても。

 台本なんてものを書くにあたり、自分をそこにぶつけそうで怖い時は一旦どうしたらいいのか。ていうかなんだ、台本って。台本なんてものはないに越したことはないんじゃないのか。演劇ならともかく映画に台本というのは絶対的に必要なものじゃないんじゃないのか。おれがうんうん唸りながらああでもないこうでもないと巡らしているものって、要らないものなんじゃないのか。映画の元始に失礼なんじゃないのか。

そんなことないわ。映画の元始に礼を尽くすことないわ。
そんなことないだろう。しかしながら。サレンダーな気持ちでやるしかないのだ。

 とにかく〆切が重なって、サボってるつもりはないんだけど頭の中の断片を繋げる作業がめんどくさい。この作業は創作ではない。作業だ。作業には簡素な冷徹さが要る。バイトみたいにやるのだ。それは必要だ。

 自分を台本にぶつけてはいけない。自分を、というのは「現在の自分の考えを」と言い換えられる。
 未来をやるのだ。現実を記録して過去を観るシステムをとるテクノロジーに未来を込めるのだ。切り取られた四角い画面に、その外側を予感させることをただつづければいいと思う。それが正攻法かどうかではなく、それを続けることだけでいいとすら思う。映画はね。

20220123

プールサイド小景・静物

 小説──というかなんでもそうだけど、書かれていない出来事や時間を、読者は読むことができない。
 察することは出来る。予感や雰囲気を感じることで。しかし察してしまうということは時として、たとえば愛する人における「オレの知らない時間」を裏付ける行為になるし、またそれは言い換えれば相手と自分の間に断絶がおきるということでもある。他人であるということを思い知らされる。

 収められている短編はどれも、「断絶」を、やり方として読者と小説を「断絶」させることでヤッている。だけどそれですべてではない。
 『静物』で延々繰り返される「いまここにない」時間の伝聞は、「断絶」をされた後の「断片」たちが聞き手に接続を促す。

 私たちは他の時間を生きる他人だけれど、他人のままでもつながろうとすることができる。
 あくまで、他人のままで。
 聞き手というのは何も、登場人物に限ったことじゃない。