20220930

ラブライフ

 ラブライフの素晴らしさの一つとして今ふと思ったことがあって、しかしながらこれがどのくらい観客に感銘として波及しているのだろうか、波及の結果として言及がされているのだろうかという疑問をもった。それは言い換えれば映画としていかほどの効果があるのかという疑問で、なぜならば映画がテクノロジーの産物である時点でキャメラが撮影して編集してひとたばの時間になった過去の光景の中のすべての意味は観客どころか作者たる監督にも分からない時というのはままあって、ままあるがそういう時は大体分からないままエーイやったれとやってしまう方がいいのだが、ともかくフィクション映画の骨子である「ストーリー」と撮影された「現実の風景」には本来的には文字通り異次元の相いれなさがある。その相いれなさの曖昧な折衷点をなすというのが成立した瞬間から矛盾し破綻している芸術としての映画だと私なんかはかぶれ気味に思うけれど、逆に言えば周到に現実っぽさの皮を被りながら現実そのものを排除されて制作されている映画の中で、"相いれなさ"が露出する瞬間にこそ映画的だ!というまさに映画でしか味わえない感動がある。そしてそこには作者の意図が介在しない。

 で、冒頭に書いた「ラブライフの素晴らしさの一つ」というのは、後半の旦那の独白における猫の運動で、なんでその猫にこんなに感動しているのかというと「この人の閾」読んであらためて「書きあぐねている〜」をまた読んでいるからなのだが、プレーンソングにおいて保坂和志が文学の潮流に対して挑んだ実験というのが、まさにそのシーン、そのショットにあるじゃないかと思い出したからだ。

保坂和志は映画にならないとぼんやり思っていた私にとっては、青天の霹靂の思いだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿