20231213

「takatobi」感想

前作「鯨波」を観た時、その凶暴さに自分の論理的思考を破壊されて語彙を失った私は白旗振りつつ苦し紛れのように「喧嘩稼業」の一節を引用する形でフィルマークスに以下の感想を書いた。


"立脇実季の映画は立脇実季の監督した映画でしか味わえない。

全選手が踏み入れ足跡だらけになっている場に立脇実季だけが一歩も踏み入れていない。

立脇実季だけが新雪の野を持っている。"


takatobi」で立脇実季はついに全編雪吹きすさぶ真っ白な世界に"物理的に"突入した。私の「鯨波」の感想文と今回のロケーションに立脇実季自身の中における結びつきはない(だろう)ので、これは私がかつて未来を予見していたことの証明といえる。もしくは……自分でも知らずのうちだが、私は未来からやってきたようだ。


 さて「takatobi」、ファーストカットはめちゃくちゃ技巧的に上手い。雪景色を横断する人影が中央から下手に歩いていくのを観客はまず目で追うのだが、そののち下手から上手へ向かうバスに気づくのに一瞬遅れて、バスと同じ進行方向に歩くさっきとは別の人物をカメラが追い始める時にようやく「こっちがキャラクターかよ」と気づくのである。最初に目で追った人物もバスもおそらく「たまたまそこを歩き走ってたから映っちゃったにすぎないんですけどね」と監督本人は笑うかもしれないが、だとすればこの見事な視線誘導は作者の恣意ではなく神様──というか、"この映画そのもの"によって設られたということになる。これは数カットのちのやばい動きの犬たちにも共通。あの犬は、撮っててテンションあがるだろうなというのがカットの尺で分かる。あれは切りたくないよなぁ。

 人影・バス・犬たちにせよ、それらは"実写映画"という、物理現象を無差別にキャメラで撮影することしかできない形態だけが許された豊かな自生性のあらわれだ。自生性の芽生えたカットがひとつでもあれば映画なんてものは私からすれば傑作認定なので、1カットめからオオーッ&クソーッという気分になる。クソーッは嘘。


 北の街を少女が歩いている。というより彷徨っている。というショットが続く。動線がうまく配列されているわけではなく、カットが変われば少女は右左奥手前とあらゆる方向へ歩いていく。だから私は"彷徨っている"と書いた。彷徨うとはそういうことだ。

 彼女がばらばらの方向へ彷徨い歩きながらに一連のシーケンスに共通しているのは、降雪激しい雪景色の中にいるということ。


──ここまで書いて手を止めるけど、私は映画の感想文を書こうと思って書き始めて、今まさに文章を書いていたのだが、な〜〜〜んか自分でここまでを読み返すと映画のショット解説みたいになってきてるというか、このままだと全シーン全カットの羅列とその分析をするに終始してしまうのではないかという予感に襲われた。私は難解な映画を解きほぐしたいのではなくて(というかこの映画は難解ではない)、映画を観て自分がどのように感じたかをこそ残しておきたいのだ。あぶない。評論家じゃないんだからおれはさ。居住いを直して続く。


 閑話休題。

この映画は、"あるひとつの出来事を思い出す"という時間、その一瞬だけのためにある。

主人公である少女が"あるひとつの出来事"を自ら望んで思い出そうとしているのか、それともふいに思い出したのかは分からない。しかしながらいずれにせよ彼女の中で"あるひとつの出来事"を思い出せないことが居心地の悪さにつながっていると思う。しっくりこない、もやもやする、判然としない、でもいい。表現はなんでもいい。誰しもあるだろうこの感覚。


 少女は8ミリフィルムカメラを持っているが、フィルムカメラというのはデジタルカメラよりも歴然と、物質として、"物理現象を撮影する"ための機械だ。もしもいつか自分が忘れても、目に映るものを撮影さえしておけば風景は物質として遺る。少女が8ミリを持って北の地にやってきた真意はわからないが、思い出せなかった"あるひとつの出来事"を思い出す という「takatobi」の肝となる感覚に対して、フィルムという物質は比喩的にも有用性が高いモチーフになる。


 では雪はどうか?雪は景色のノイズになる。フィルムの例のようにしてもっと"映画"というものに寄せて書けば、古い映画や劣化フィルムに散乱するフィルムノイズは画面に降る雪のようと思うことがある。それを踏まえ、この映画における鮮明たるはずのデジタル画面を覆う雪景色は劣化フィルムと双対にある。後景は雪雲に覆われて判然としない。ノイズの雪で前景も見づらい。この判然としなさ、そしてその中を彷徨い歩く少女は、私が勝手に看做したこの映画に流れる時間つまり「しっくりこない、もやもやする、判然としない、でもいい。表現はなんでもいい。誰しもあるだろうこの感覚」の比喩になってるではありませんか。驚くべきことにさ。

 外部記憶媒体であるフィルムが、それでも旧くなることで劣化してしまう時に降る雪がフィルムノイズだ。この映画自体が旧くなった劣化フィルムの比喩なのかもしれない。だとすればこの映画は今よりずっと未来から届いている。現在が経年劣化するほどに遠い先の未来へと高くジャンプして作られた映画。

 私の言っていることは勝手な誇大妄想ではない。こういうことを監督自身に言ってみても、「そこまで考えてなかったです」と言われるのが相場で、つまりは映画の自生性というやつで、だから私は監督の恣意を読み取るのではなくて、あくまでちゃんとすべて映画そのものに準拠しているつもりだ。

 踏まえて繰り返すが、これは遠い先の未来へと高くジャンプして作られた映画。だからタイトルは「takatobi」という。

レモンみたいな髪色で、ソーダみたいな性格の俺

 三年ぶりくらいのことだと思うけど、約一週間の休みが発生して、なんにもしないで過ごした。
ほんとは色々やらねばもあったりもしたんだけど、どれもバラシになったので、本当に何にもしない一週間だった。でも珍しく、自分も二週間くらい前からけっこう体調を崩してたので、神様の采配でしかるべく発生した休みなんだなと思った。ミッシェルとかロッソとかバースデイをたくさん聴いた。やっぱりチバ死んじゃって悲しいんだな自分は。と思った。思ってたより悲しいんだな。死んじゃって悲しいからチバの音楽を聴いてたわけじゃないけど。好きだから聴いてるだけで、それは忘れてはいけない。

 暇にあかして、ひとりでカネコアヤノのMVロケ地にアタリをつけ、確かめる冒険をしにでかけたが、やっぱりそこだった。すごいロケーションだった。こんなところがこんなところにあるとはね。私もしれっとパクろうと思った。だけど、ひとりだと感動もひとりぼっちで、盛り上げるために「オー」とか声に出したが、ひとりなので返事はなかった。わかちあえないことは良い時と悪い時がある。

 一度、それまでサシで語ることの少なかった友人と夜更けから朝の九時くらいまで話し込む日があって、なにを話したかはほとんど忘れちゃったけど、朝の九時まで語るなんてね、と思った。家に帰って眠ったら夕方まで寝てて、私はどんだけ遅くに寝ても昼には起きる体質だったから夕方になってる空の色が窓からにじんでるのを見て「はい?」と思った。だけどたくさん寝たのもあって、その日にだいぶ体調が良くなった。
LINEにて突然おすすめしてもらった曲がメチャクチャ良くて、一日中聴いた。こういうことだよなぁ!こういうことだよねぇ!というやりとりをした。これは何も言ってないようでいて、魂の確認なのだ。

駅弁とパフェーに突如興味が湧いて、ツイッターに書いたら「食べに行きましょう」とリプライあり、「突然誘ってくれ」と返したら「今日いまから行きましょう」と返信あり、突発的に東京駅まで行って駅弁を食べた。久しぶりに行った東京駅駅前は普段目にしない景色で、目がいきなり広角レンズに切り替わったみたいで脳がバグるねという話をした。小一時間寒空の下で話し込んだが、たいした話はしてない。いつか結婚することになった時、相手が「東京駅の駅前でウェディングフォト撮りたい」と言い出したら心がピンチになるねという話とか。

 ずーっと観たかった「ハニーレモンソーダ」をようやく観て、あまりに良くて、いろんな人に「ハニーレモンソーダ観た?」と言うとかなりの割合で「観てますけどあれが何なんですか」と返ってくるのでその都度いかに「おれはハニーレモンソーダみたいなものを作るのが夢なんだ!」とコンコンと語る。まだフィルマークスにアップしてない感想文は2000字をすでに超えている。まぁくだらない映画ですけど。くだらないということを軽視するのはよそうね。噂で聞いてたペットボトル落下シーンはあまりに良すぎて悔し涙に血が滲むほどだった。

 一度悪夢を見た。悪魔というか怖い夢を見た。狂人がヌッとあらわれるという類の。だけどその時、私はあまりの恐怖に背筋を凍らせながら「なるほどね、こういうことがこのように起こると"恐怖"を感じるんだ」と、マジで映画の演出のことを考えていて、というか学んでいて、だから「覚えておこう」と思っていて、朝起きて自分にゾッとした。私はもしかすると殺人鬼に迫られてもなお、「こういうアングルで人って殺されるんだな」とか考えるのか? そんなの病気だよ。映画のことを考えない時間を確保しないと映画は作れなくなっていくんじゃないの?

 私のそういう危惧のあらわれか、グルメと旅行を趣味にしようかなと最近は思っている。「そこ曲がったら、櫻坂?」の過去回を延々観るのがいちばんなんにも意味のない時間だ。でもその時間しか、映画を考えないでいられる時間がない。そんなのいやだ、おれは旅行に出てうまいものを食べる(ことに少なくとも思いを馳せる)ぞ。

スパルタローカルズをたくさん聴く。もう10000回くらい聴いてるけど、「グランジシスター」をじっくりじっくり聴いて夜中にひとり沁み入る。スパルタを大好きになって永い時間が経ったけど、まだこんな瞬間が来るのかというのに、都度おどろくし、嬉しい気持ちになる。好きって気持ちは大概老いるけど、変わらない好きもあるんだと思うから。

今日はある友人と二年半ぶりに会ってお茶をした。数回しか会ったことなく、また自分よりずっと若い人だけど、本当に尊敬している数少ないひとりなので、楽しく過ごした。共鳴するというか、シンに魂の部分で好きだなと思える人と話す時、「よく喋るなぁ自分」と呆れる瞬間がある。今日もぺらぺらよく喋った。ハニーレモンソーダの話もした。あたりまえだろ。


 私は男の子なのでエッチなものへ普通に興味があります。だけどなんかエッチなメディアにも周期的に飽きることがある。この一週間は、まぁ体調悪いのもあって、飽きてた。そんな折、インターネットをパトロールしてたら、「マニアック・フェティッシュ系」のインディーズDVDを扱っているサイトに辿り着く。どのジャケットもいかにもちゃちである。あんまりマニアックな趣味のない私だが、いわゆる"クラッシュ"はけっこう興味があり……つつ、いやエロい気分になったりはしない。耳掃除動画とか角栓摘出動画みるのと同じ気分でクラッシュものはたまに観る。今回はクラッシュじゃなくて、なんか、グラビアの人なのかAVの人なのかわからないけど、とにかく女性が、M男の人に、スパンキングやSMじゃなくてその先の、飛び蹴りを入れるとか関節技をかけるっていう(エッチな行為には発展しない)、「ボコす」というジャンルがあるというのを知って、それのサンプル映像を主に見ていた。マジでボコされてた。男の人が。本編を買おうとすると7,000円とかするようだ。いわゆるエッチな動画の7倍くらいするじゃん。さすがに買わないが、サンプルはひと通り見た。断片的だが、とにかくどの断片においても、ボコされていた。
「いいな」と思う。実際にされるのなんかいやだけど、実際にされるおそれがないからこそ、ぼんやり「ボコされるというのも時にはスッとするんだろうな」とか思う。

そういうDVDのうちのひと作品の概要欄にこんなことが書いてあった。以下に引く。

彼女の背筋力が男の背筋力を上回り、キャメルクラッチは限界を超え、男の体は2つ折りに。

『グァ〜〜〜〜〜〜』

叫びとともにその瞬間はやってきた。屈強な男が泡をふき失神、痙攣して床に倒れこむ。僕等の撮影に台本やリハーサルはない。

ただ、その一瞬に夢をかけるんだ。誰かがやるはずだった、その誰かになりたかった。

撮影後、彼女にこう言った『総理大臣よりいい仕事したね』。


宝石みたいな美しい文章というのは、どんなところにだって転がっているんだ。散歩する道端で、あなたがちょっと小石をどければ。


20231118

星の砂/手紙

 クヴァ氏より"28歳の誕生日プレゼントに"とシール沢山もらう。
外装に「星の砂が入ってるから風のないところで開けるように」と書いてあったが開いてみたらシールで粋。外装の内側が手紙になっていて粋。

 最近むしょうに手紙を誰かに書きたくなって、何通か書いた。文房具屋で便箋を買った。84円切手を貼って、ポストに投函した。

20231027

増村保造「偽大学生」感想

 原作「偽証の時」にそれまでの経緯を肉付けされているオープニングからしてある種非常にばかばかしいというか、「偽大学生て!」という気持ちがずっと消えないままではあるのだが、次第にやばいことになってくる。ことのおこりから結末まで、ノリとしては闇金ウシジマくんみたいな話なのだが、ウシジマくんは出てこない。

 監禁により監禁した側が次第に"監禁"という行為そのものに苦しめられていき、またそのただなかで「監禁したところで何もいいことがない」と気づきながらも辞めるわけにはいかなくなるという新たな苦しみが生まれて、犯罪行為であるという高いリスクにもかかわらず中身が空疎という大江文学初期に通奏する"骨折り損のくたびれもうけ"に発する、実存とは何か?の問題は映画もまたそのように訴えかけがある。だけどそれは言うなれば「偽証の時」の感想になるので、映画「偽大学生」のことを言うとすれば、主人公が偽大学生本人に据えられている点に、かれの「なぜ大学生になりすまし、またそうあり続けようとするか」という問題(それは原作にもある「なぜ監禁時に叫び声をあげて助けを呼ばなかったか?」にも通じる)へのひとつの答えがあり、かれの答弁では「親を安心させたかった」とあるが、これは表層的なことであり、端的にワナビー、"自分がなにものかであるという保証"をえたかったということだろう。たとえ学生リストに載っていなくとも、歴史研究会にてその一員であるという外的な認知をされる=それが監禁という状態であれ、彼らの輪の中にいる、ということをこそかれは望んでいたのではないだろうか。
 この切実な欲望は、大江健三郎の実存という主題にも多いに親和性があり、また、"大学生"という肩書きが歴史研究会つまり左翼的なセクトにおいては空疎であること、もしくは歴史研究会というセクトにおいて彼らがやっているのは飲み会と監禁という(勘違いもありながら)なんら革命行為に繋がらない空疎な行為であるということ、にも比喩的につながりがある。

 ラストはおなじく増村保造監督の「巨人と玩具」のラストシーンも思い出される明るくも完全なる狂気(アリ・アスター とかいって騒いでる場合じゃないんだ)で締めくくられるが、そのラストぜんたいもしくは最後のセリフには大江というよりも白坂依志夫・増村保造の作品らしいニヒリスティックで端的な示唆がある。原作にはないあのラストシーンによって、この映画が大江健三郎を原作にしながらにして、やはり増村やはり白坂の作品になっている。

クジラックス「歌い手のバラッド」感想

 漫画広告につられることがあんまりない私が久しぶりに広告にダイジェストされた漫画の断片に好ましい青春の苦味のニオイを嗅ぎ取って全話ではないもののほとんどの、つまり公開されているすべてを読んでみたところが普通に胸糞悪いロリコン漫画であったため、それでも公開されているすべては読んでみたもののエロいシーンは全部飛ばして(しまったが)読んだ。広告にあった青春の苦味は私が読んだ八話のうち第八話で、だからそれまでの七話はだいたい飛ばした。だが、飛ばしたからといってそれを理由につまらーんとは切り捨てられない。ルサンチマン的な屈折し歪んだ自己承認欲求──主題自体は手垢に塗れている、をたんたんと描いているが、たとえば主人公がネットで炎上するを知るシーンなどで、彼自身が戦慄していながらも滑稽に描写されてある。それは絵のタッチもそうだし、混乱した彼が「一旦アナニーしてみよう」と思いたち、自分のつくった曲をかけながら「がんばれがんばれ俺!」と叫びつアナニーに興じるといった展開にもある。
 こうした、主題に対してベタな展開の中にあまりにも異化的になされた演出は、形態に沿うだけの凡百の作品とはあきらかに異質でありながら、「だからなに?」と言われればそれまでの、つまりそれゆえに純度の高い異物としての印象をのこしており、私にはそれがかなり好ましく感じられた。

 また、特に後半において、キャラクターが現実世界にある曲をうたうシーンや、主人公が初恋の女の子の知られざる姿に打ちのめされるシーンで、映画であればBGM的に斉藤和義「歌うたいのバラッド」が流れる演出があるのだが、権利関係に配慮してか、「p.○○からp.△△の間の"──♪"には「歌うたいのバラッド」の歌詞が書いてあると思ってください」という注意書きが米印で枠外に付される。
 上記のBGM的エモーショナル演出を意図されながらも、実際に歌詞が書いてないと何のエモ効果もない「──♪」もまた、その無意味さゆえに革新になり損なう、純然たる異物として私の印象に強く残り、やはり期待はずれのものを読みながらにして「期待はずれ」と断じることはできなかった。意図的であるかどうかはともかく、どちらにせよ苛烈なまでの無意味さにはすごいと言わざるをえない。

20231019

認定官との再会

  何年も前だけど、私は熱心に演劇のまがいものみたいなことをやっていて、映画を今ほど熱心に作っていなかったのだがそれは当時、当時目にした映画の何を観てもつまんないなと感じていたことによる。それでもその年はこしらえた短編映画が小さくはあれど人生で初めて「グランプリ」というのを貰った年で、しかし授賞式の日に演劇のまがいものを一週間連続で公演していたので会場にいた人からの電話だかメールだかで受賞を知った。

 映画への漠然とした倦怠期であったこともありグランプリで別段やっていけるぞという自信がついたわけではなかったし、賞金よりも演劇の売り上げの方が高額だったことも私を良くも悪くも思いあがらせなかった要因になったが、それでもシンプルに嬉しいなと思った。

 ともあれ天狗にならずに済んだ一方で私の映画への“うってでるぞ”という士気が喚起されなかったこともちゃんと強調しないといけないのだが、私がささやかなれど栄光を勝ち取った一週間後に、再び映画への情熱を燃えたぎらせることになるきっかけとなる一つの作品に会うことになった。

ムージックラボで観た「マグネチック」である。大感動して泣きまくった私はひと月後の凱旋再上映でも鑑賞し、同じように泣いた。帰り道の電車で「あれは自分には作ることのできない」という敗北感の伴いながらの喜びがあった。北原和明がインディーズ映画の雄になるという確信を得たということでもないが、少なくとも当時私はこれから一本も自主映画が作られなくなる世界になったとしても「マグネチック」がある、「マグネチック」だけで構わない、とすら本気で信じていた。


 私は大好きな人を見つけるとなんとしても当の本人に会おうとラブコールをしまくるという意外なまでの積極性がある。あらゆるツテを駆使して半年後に北原和明監督とお会いした時に、私はちょうどいろんな縁でムージックラボに自分も選出されることが決まった時期で、それを伝えるとともに北原監督への敬愛を態度にしていた。


 私が思い出すのは、その時に北原監督がふと「おいくつですか?」と尋ねてきたことである。私が二十後半の年齢を応えると彼は「若いですね、僕なんてもう──」と自身のご年齢を教えてくださったのだが、それ以来私の中でその年齢はひとつの指標のように感じることになった。北原監督が「マグネチック」を作るに至った年齢までに、自分は「マグネチック」に恥じぬ作品を作らねばならない。その訓示は私を激励しながらも追い立てるようにして圧迫し続けた。その年から私はさまざまな幸福な出逢いのもと、文字通りの悪戦苦闘をし、ほとんどリセットされたような自分と映画の関係性を再構築し更新することだけをしてきた。演劇は、何人かの素晴らしい同世代の作家を知ることで──こちらは「マグネチック」とは逆の反応になるのが面白いのだが──むしろ自分の創作の基盤からは切り離すことになった。それを私はポジティブに感じている。

 ふと気づくと、私は北原監督の当時のご年齢にほとんど同じになっていて、最近ではその年齢を気にすることもなかったのだが、それでも今年製作した映画と今年製作する映画の二つの作品を眺めるときに、少なくとも「マグネチック」には恥じないものを作ることができたという自負をおぼえる。この本懐には慢心でも優越でもなくて安心がある。とりあえずは、この数年で歩みを止めることの一度もなかったことを、誰より自分が自身に認定している。このことが最も難しくまた最も嬉しいことだというのは、誰であれわかってもらえることと信じる。

 しかしそれによって指標を失った感のある私が、しかして如何に自分を激励し圧迫するべきかと悩んでいる数日の中で、ふと検索した大江健三郎全作品年表で私は、久しぶりに、本当に戦慄し燃えたのである。そこには作品の書かれた年とその当時の大江健三郎の年齢が丁寧に付されていた。私は小説家でもなくまた大江健三郎と自分を年齢において比較することの馬鹿馬鹿しさの伴う不遜を誰に言われるまでもないのだが、ともあれ私は自分の年齢時に大江健三郎の書いた作品を目にし焦燥を感じた。心を燃やせと激励するあの誰より厳しい認定官に再会したのだ。

20231017

朝森瑞季「ガラスの天使」感想

フォーマットというか展開というかが、別マガとかベツコミのそれやんけという感じなのだが、4巻もかけてやることでもないことを4巻もかけて語るというのは、それは別マガとかベツコミの少女漫画の諸作とは違う。別マガベツコミの諸作はいちいち絡まった糸を解く過程でストーリーが長くなっていくが、これはバンブーコミックスなので普通に冗長。だけど私が別マガベツコミ作品で往々に感じる「ユキちゃんより赤星くんの方がいいだろクソバカ!」とか「矢野より竹内くんの方がいいだろクソバカ!」みたいな、つまりサッちゃん対してにせよ七美に対してせよ「おまえらの行く末には不幸が待つ!」と呪詛を以て感想とするような気分にはならない。といって別に幸せも願わないが、ラストでなんか二人に幸せな未来が約束されている感じだったことに異論なしくらいの意味。それもバンブーコミックスっていうか結局成人向け漫画であることに由来するが、良くも悪くも性描写以外のドラマパートだとかキャラクターの心情は結局どうでもよくて、だから偶然であるにせよ、読後感はさわやか。他人の気持ちとかいちいち考えてたら恋なんて独善、やってられないよね。人生の厳しさを見るね。

20231016

市川準「東京兄妹」感想

 市川準は"時代の変化もしくは経年に伴って風化し消え去ろうとしているもの"にかなり強い執着があるというのが私の印象で、だけどそこにノスタルジーを見出そうとしているわけではないというところに苛烈さを感じる。
 ノスタルジーの感受というのはかつてはあったが今はないものを懐かしむ行為であって、この「東京兄妹」しかり「トキワ荘の青春」しかり、現代においてこれらの作品を観ている我々が郷愁を感じるのは、描かれている光景がすでに失われ終えた後の時点から鑑賞しているからだ。
 市川準が彼の作品で物語っているのは、そういう未来から眺める"過去"ではなくてあくまで消え去りはじめ遠くない未来に失われるであろう光景の現在進行形で、つまり映画の中でゆっくりと時間をかけて消滅の兆しだけを見つめている。市川準はその変容を肯定も否定もしない。決して歩み寄らず、だけど突き放したりはしないで、ずっと同じ場所からひたすらに見つめる。手を差し伸べたりはしないけれど、その場所からいなくなったりもしない。そして彼の眼差しはキャメラを通して観客に強いられることになる。安易な同情も投げやりな跳躍もさせず、観客にただ映画を観させる。このストイックさ……。なんて気が長いんだ。

 日本家屋(の室内)言い換えれば古くさい様式の家父長家庭の崩壊をどう撮るかということにおいて、小津に倣うのはあまりにもストレートではあるけれど小津に倣っても小津にはならないのが逆説的に小津の強靭な小津性だろうから、市川準が自分も小津になろうとしてないのはあまりにも市川準印のCMすぎるインサート連打で良くも悪くも開き直りが見られる。アングルとサイズと照明がCMのそれでしかない。冒頭からして豆腐のCM始まったのかと思ったぜ。それは繰り返すが良くも悪くもだと思う。これは映画であってCMではないが、この映画は市川準が作ったものだから。
 インサートで言えば一箇所ものすごくグッときたのは、ラストシーケンスの街並みインサート連打の中で、かなり早い段階において洋子が写真屋受付に座っているショットが挿入される。ヒロインの姿が街並みのひとつとして扱われている。あれはかなりオオーッとか思った。

 芝居シーンはa)2キャメのマルチアングル、もしくはb)ヒキ→ヨリ/ヨリ→ヒキという二種類のコンテで基本的に進行していくのだが、それ自体はたいして面白くはない。
けれども、インサート連打で「あぁなんか結局良い話というか、ふわっと終わるのか。あーこれがラストシーンだろうな。あと1、2カット入って終わりよね」とぼんやり油断したところにあるラストシーン。3カットだと思うが、時間にして20秒程度の、かなり地味であるし、かつ、あれも小津じゃんと言われればそれまでのようなオチの付け方のはずだが、私はかなり戦慄を覚えた。この映画に起きるどんな出来事より身を裂かれるような悲痛さを感じた。あのラストは何もかも凄い。
鑑みればあのラストこそが健やかなのであり、またなりゆきとしては当然なのだ。
だからあのラストのためにそれまでの九〇分があったとまで言える。
しかし、しかし……キツい。。。体感として痛い。。

20230930

 大切な人が、もう元気じゃなくて、おそらくもう元気になることはない。その報せを最初に知った時から現在に至るまで、どうしたらいいのか分からなくて今も分からない。

 俺なんてのは世間から見たらどうしょもないはずなんだが、お会いするたびに毎回ものすごく褒めてくれ、お菓子を沢山くれた。

立派だね/えらいね/素晴らしいね、そういう言葉だけを頂いてきた。

 去年の金沢で、それで結局何かが変わることにはならなかったけど、それでも少しだけ映画のことを世間に認めてもらえた時、授賞式の写真を見て泣いてくれたらしい。喜んでくれた人は沢山いたけれど、泣いてくれたのはひとりだけだった。


 たとえ叶わない祈りだとしても、「元気になってほしい」と祈り続ける。いつか言おうと思って言えてないことがある。



───────


 以上の文章を書いたのが火曜日の夜で、しかしこれを書くこと自体が逆説的に何かを諦めているような印象を自分自身に持ちうる感じがして下書きに残したもののそのままにしていた。

 それで今日の午頃に、亡くなりましたと連絡があった。ややあってお葬式の日程に併せて

「澁谷くん澁谷くんといつも言っていたから、お別れに来てくれたらきっと喜ぶよ」とあった。

 だいたいにして他人の評価を世辞と疑う傾向にある私であるのだけど、これはきっと本当のことだ。お会いした時も、私のいない場でも、気にかけて名前を出してそしておそらく褒めてくれていた。


 誰かが亡くなったときにそれを契機にして思い出を美化するのは好きじゃないけど、思い出せる出来事のすべてにおいて私は励まされている。私の母親と同じ名前だったから、勝手ながらお母さんのように慕っています。今も。


 言わなきゃなと思いながらもあぐねていた言葉を、私は結局間に合わせられなかった。ともなって哀惜と感謝の想いばかりがある。

20230926

追い海老というバンド

2021年七月に見た夢。


 俺が今から中学2年生として編入することになった。何故?と思いつつ学生気分に戻れるじゃんとへらへら笑っていたら、お母さんに「きっと嫌なこと言われたり気付きたくないことを指摘されるんだからあまり浮かれるな」と言われる。


 さて実際に通ってみると中学生というのは思っていたより見た目も中身もずっと幼くて、なんだかバカらしくなって仲良くなるどころかサボって学校に行くのをやめてしまった。


 家でYouTubeをだらだら観ていると偶然、京都の映画監督たてわきさんが"追い海老"という3ピースバンドをはじめたことを知る。映画はどうしたんだよと思うよりもへぇ!が勝って、"追い海老"のライブ映像を何本か観る。MVも一本あって、観る。磔磔で演奏していた。それはすごいことだ。


 友達(誰だか忘れた)四人で連れ立ち居酒屋に行く。夢の居酒屋では煙草が吸える。席が埋まっていて2人ずつに別席に座らされる。おまえ中学校はどうなの?行ってねぇよばからしくなってさ。"追い海老"みた? みたみた。いいよね。

 そんな話をしているとテーブル空いたので移動する。その時、俺たちの吐いた煙が溶け合わさり、目線の高さに黄ばんだ小さい雲が偶然、できた。

俺たち「雲ができとらす」と笑った。

夢、死人に梔子

 襖をあけるといまや人気女優のKさんが、行燈で明かりをとっているだけの薄暗い座敷へ敷いてある二人分の布団の上に座っていた。彼女の夫が今日死んだ。日付が回って昨日だったかもしれない。自殺だった。Kさんは行燈の橙と闇の黒がその上でさめぎあっている浴衣を着て俯いている。
その首がゆっくりゆっくりもたげられて、こちらに向く。
 私は急な訃報に夜中ながらいそいで駆けつけた友人の家に線香をあげにきた。ワイシャツが汗ばんでいるのを感じている。友人の母に通された暗い部屋に未亡人となったばかりのKさんがいたというわけである。布団の奥に置かれた棺には白い花が供えられている。私の手にも同じ花があった。

 Kさんがじっと私の顔を見つめてから、並んだ掛け布団を少しめくりつ言う。
「今日はたくさんお喋りできるよ」
 霊前だぞと私は思うのだけど、そんなことを弁えないKさんではない。彼女が夫を愛していなかったとか、私に秘めたる想いを持っていたとかはおそらく関係なく、悲しみとその悲しみの責任の所在を自らの中に見出すことを誰よりも自らに強いられているこのたびの不条理を一瞬なり忘れるためかもしくは結果的に苦しみを打開することになるきっかけづくりか明日になればもっと自分を苦しめることになる気の迷いか、如何。
 だけど私は予感している。このあと完全にやっちゃうんだろうな〜と。真意がどうであれ人の痛切な想いは無碍にできない。

くくっと笑って浴衣を脱いでいくKさんがちいさく口ずさんでいる。
「かえるのうたが きこえてくるよ ケロケロケロケロ クワックワックワッ」

なんども繰り返される。私は黙っている。彼女の夫・私の友人はもはや輪唱が叶わない。
彼女は俯いてひとりでうたっている……。
その顔が、また私を見た………。

20230912

吉祥寺プラザ閉館

僕らあの夏の前日から楽しい未来だけ夢みていましたね

おぼえています、静岡の山道で受け取ったメール

その時のハレーション高い林のみどりいろ


いいしらせが来ると良いね

そう思った

たくさん本が読めたらいいね

優しい人が多いといいね

話し合う人いればいいね

だれかと友達みたいになれたらいいね

僕が遠投した願いが叶ったかどうかはわからない

それでも楽しいことが多かったなら良い

じっさいのところ、当日よりそれまでの日の方が楽しいことの方が人生は多い


冬のさなかを越えても僕は吉祥寺に行くだろう

今年の夏までそうだったように、ひとりで家まで帰るに戻るだけです


一度、いっしょにらーめん食べた

その後ありぇねぇほど遠い道を歩いた

たくさん本読めます、優しい人ばかりです

帰り道でそう言ってたね

こんな日がこれからもあると思っていたが、そういうわけにはいかなくかった

失ったものはないはずのただそれだけのことです

ただそれだけのことが、こんなにもさみしい

前半はかなしく後半は怖い話

 ふりかえってみればなんだか楽しかったけど同時にそれを上回るくらい悲しかった出来事があり、そんなことってあるんだと自分を対象化して平静になろうとしているそのこと自体がなお悲しい。

いちど柱立て石積む橋のこちらに私がいる
あなたを見てる

いくつも立てた柱と石積む橋の向こうに私はいて
あなたを見てる

水を打つ音がする
またあらわれる
水を打つ音がする
またひとしずく


「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」という言葉がきっと今日もどこかで誰かにつぶやかれていて、言われた相手としても「せつないね……」としか返せない。私は直接その言葉を聞いたことはないんだけども、あざとくて何が悪いの?を毎週ちゃんと観ている私としては、「そういうのが毎日のように誰かがつぶやいているんだろう」と結論せざるをえない。私が言えるのは、私は自分がこれまでとこれから先において書くなにがしかの台本で、キャラクターにその言葉を吐かせることはすまい、ということ。共感のみを喚起させるだけの陳腐なセリフだからではない。「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」という言葉の哀切さに、私自身がちょっと耐えられないということさ。何か創作をやるというのは、そこに出てくる登場人物たち全員を一人ひとりの人間として扱う責任をはらむ。いいことよおこれ、どんな形であれ。私はいつも彼らにそう思う。
もしも「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」というセリフを、必要に迫られ他にうつてなく書くことのあれば、絶対に結果逆転をうむためのふりとして使おう。

「結局さ、彼って私のこと、友達としてしか見てないんだよね……」という言葉を例にとる会話が今日、仕事の中でなんとなくあり、私はへらへらしていた。すべてのことは枯れ、風化していく。一億年後には現在林立している建物のすべてがない。テニスコーツの「光輪」が聴きたくなってiPodを探すも見つからない。iPhoneのサブスクで音楽を楽しんでいる自分に強い反省を促す出来事だった。iPodが見つからない悲しみよりも、iPodが見つからない状態にあることに全然気づいてなかったことが。すべてのことは枯れ、風化していく。我々はもとより我々の気持ちとか気分とはいつ・どこにあったか?それは本当にあったか?その検証と証明のためにテクノロジーたる映画をやってるというのがやってる全員の根底にある。あなたはそこにたしかにいた?どんな気分で?

 作業がひとくぎりついたと思ってこんこんと永く眠ったら、夢の中で夢を見るというのが久しぶりに起きた。母親と幼い少女が団地を臨む十八時の道路上にいる。私はその少女を知っている。近所の子だ。私は三人くらいでしゃべったことも何度もある。そんな子が、私の一度も見たことない彼女の母親(であろう女性)と連れ立って立っている。急にあたりが暗くなっていて、電灯が二人を照らしているからそこにいるのがわかる。私は直感する。彼女たちはこの世のものではない。怪異である。しかし、母親はともかく私はあの少女を知っている。だから怪異じゃない可能性がある。だけども、もしかしたら会ってない期間に亡くなって、怪異として現れたのでは?それより、もっと怖いのは、もし、私が会っていた時から既に……ずっと……。
 現在の私が夢の中の私自身にあきれることなのだけど、私は上記の「怪異の可能性高い」母娘の姿を見て、おばけかもしんねぇ!と発想し、ならば手元にあるビデオカメラだかiPhoneだかで、撮影しよう!おばけを撮影したらすごい映画になる、と思い至ったのだ。マジで自分が一番怖い。早く立ち去ればいいのに。
 そこで私がとった行動というのは、その娘を呼ぶというのであった。
Aちゃーん!おーい!」私は手を振った。
娘がやおらこちらに向かって走り出した。
その走り方は、駆け寄るとかではなくて、いきなりのトップスピード、あきらかに何かの強い意志を伴う、それは、もしかすれば殺意。
私はあわてて逃げ出す。近づいてきたことで解像度の上がった彼女の顔は青く、目鼻の位置に空洞があった。

──という夢を見た私は「なんて恐ろしいのだ、これはホラー話のネタになる」と思い、友人と喫茶店にてそれを話す。夢の話だからところどころあやふやだったりするが、ともかく聞いてもらう。知人は黙っている。こうふん気味に話し終えた私は尋ねる。
「どうだった?さっきから淳さん黙ってるけど──」
ここまで言って私は気づくのだが、目の前の友人というのは「淳さん」ではなく、そして私に淳さんという友人はいない。ずっと黙っているその人には、あるべき場所に口がなかった。

20230908

恋の視力回復

 恋はもうもく、突然周りが見えなくなって、突然周りが見えることもある。それが恋の終わりなの。今より少し前の私はもっと周りに非寛容で、好きなものより嫌いなものの明瞭度を上げることで自分の輪郭を定めていた。ずっとずっと好きだった人や、十年先も頻度の落ちずに交遊するだろうと思っていた友人たち、そういう宝石みたいな人間関係を突然終了する時が私にはままあって、それをシャッターを閉じるなんて言い方してた。遭遇の頻度や一緒にいる時間の長さで親愛は測られるものではないから、忙しくなったりやなんやらで会うこと連絡を取ることの減った人のすべてが私のシャッターを下ろした対象なんてことはもちろんない。むしろ、好きな人っていうのはさ、てきとうでいいと思う。ブームみたいな潮流はあるが、それが落ち着いたからって貴方に興味がなくなったわけじゃない。半年に一回だけ会う親友もいる。三年会ってない好きな人だっている。だからと無関心とは早計だという。

 周りの人から「優しい人ですね」「いつでも落ち着いている人ですね」と言ってもらえることが増えてきた。その都度ちくって後ろめたさの針を刺す私の本質とは優しくもなく落ち着いてもいないのだけど、そのようでありたいという強い意志を持って生きている。何人か「こういう風に他人に接したい」という憧れを抱くロールモデルの先達がいて、たとえば養老先生だとか。定期的に養老先生の書くこと話すことを目にし耳にし、それを中間試験のように自分の成績と照らし合わせる。なかなかああはなれないものだがそれでも克己する。

 ところで私が誰かに(それは性別を問わずに)ときめいている・恋をしている状態というのを目の当たりにした人は意外と少ないんじゃないのかという話を友人にしたら「割と見るよ」と返されたが、それこそフェイク、私はなかなか誰かにときめかない・恋をしない。年齢もあって心が不全ぎみ。恋をするというのは心を開くというのとは違う。心を開くというのは相手の目の前で突然寝っ転がって「チーもう寝るれち!」と叫ぶことなので、それを見たなら貴方に心の中の十枚扉のうち五枚くらいまでは開いている。


 恋とは。ここからが本題。


 夏がおそらくもう完全に終わって秋風が夏の名残の湿度に乗って窓から吹くからエアコンにお疲れ様を告げた。電気代が少しは楽になるはずだぜと一息、毎日毎日浮かんでは消える希釈された希死念慮だけはそれでも堪えて口に出さず態度に見せず、インスタグラムを開いたら、おスズのストーリーズ投稿が目に、いや脳味噌に直接、文字通り飛び込んできたんだ。まだ見ていない人は本当に見た方がいい。ストーリーズ投稿って24時間で消えてしまうんだから。夢みたいだね。

明日992153分で消滅してしまうよ。今すぐインスタグラムをダウンロードして、airi_suzumura_naxのページにアクセスして、アイコンを押すんだ。急ぐんだ。


 あなたの脳みそが受像するのはこんなジェイペグだ。

 制服?を着たおスズが直立不動をして、右手に持った白い貝で自分の右目を隠している写真。左目と口元から窺い知れる表情は、いつもながらにどこか不安げで、はっきり笑顔とまでは言えないのだけど、それでも笑っているように見える。背景には空と海と堤防。小さく灯台のようなものもある。波が光を反射してきらきらと光っているよ。そういう一瞬が静止して、永遠のように固定されている。しかしそれもたった数秒だけの許された時間だ。

一瞬かつ永遠、そんな光景に草野マサムネの声がこんなふうに響く。


君が思い出になる前にもう一度笑ってみせて


 完璧でしょうと言わざるを得ない。こんな瞬間だけは、映画も小説も敵わないんじゃないかとへこたれそうになる。たった数秒で恋はたちまち僕らの心に屹立し発光する。逆輸入的に僕らの胸にはってのが確かにあること、ってのが光る代物なんだと認識できる。それらは目に見えず耳に聞こえないが、確実にある。このドキドキだけがいつだって現在なんだぜ。

 それでさ、心の確認・恋の発光の観測っていうのはいつもたった一人の時に訪れるんだ。例えばデートをしている時だって、目の前に誰かがいる時に恋なんて現象は起きないんだ。その帰り道、緊張して思うより呑んじゃって転んでしまうアスファルトの上とか、人影まばらな電車の車内灯で窓に反射する自分の顔、その影の部分に窓外の夜街光が流れている時とか、そういう時間だけに恋は発光するのだ。


 今日の僕は520円で買える安価の不安に火をつける遊びを真っ暗な部屋でやってて恋の発光を見た。

 僕のアパートの不便なトイレに後ろ向きで立てかけられてある額縁をひっくり返したことはあるかい。何人かはみた事あるだろうが。そこには、僕がかつて自分の気ままに編集した映画のポスターがあるのさ。それは投函しないから届かない手紙なんだ。恥ずかしくはないけどまあ配慮からひっくり返してある。今度見てみればいい。その映画のタイトルは「世界でいちばんすてきなあなた」という。

 自分の立場や未来のことを省みて、女優さんとかテレビタレントさんとかを大っぴらにインターネット上で「ガチ好き」って言うのは、自分ルールでしないようにしている。モーニング娘。の皆さんへの気持ちは須く尊敬なのでアリ。そして、おスズはアリなんだ。なぜかというとお互いの職種的にこれから死ぬまで絶対に一度も逢えない僕らだから。夢みたいだねとさっき書いた。絶対に会えないだろう。どう考えてみても。叶わないとわかってるから秘めずにいられる想いもある。


 閑話休題。今日の僕は520円で買える安価の不安に火をつける遊びを真っ暗な部屋でやってて恋の発光を見た。

 おスズのジェイペグ、あの姿は、彼女に一度も出逢えずに死ぬ僕が幻視した、一度も出逢わなかったはずの彼女と過ごした景色。まるで線香。青雲、俺がみた光。

 ドキドキだけがいつだって現在とさっき書いた。このドキドキは明日の2153分には消えるだろう。醒めるように。忘れるように。現在っていう時間が今度こそ本当に思い出になる。おスズの笑顔未満の表情は、それゆえに文字にして表現できなくなってしまう。

 だからその前に。笑ってみせて。もう一度。右目を隠したあの顔で。そういうことなんだ。


 「キモ」そんな言葉で一笑にふすのも勝手だけど、誰かの気持ちや感動をあざけるのは、自分が感動した時だって所詮は程度の低いものって自分で証明することになってしまうぜ。

20230812

おぼえてないことをそれでも思い出す覚書

 六年も昔の自分の映画をたまたま観たらかなり良くて、いや現在の自分とは嗜好もやり方もちがうけれど、それでも現在に至るまで連綿と続く性癖みたいなものを端々に感じとった。
こりゃ世に出さないともったいないなと半日くらいかけて整音しなおして、それをずーーっと観てたら久しぶりにブラックアウト寸前まで体調を崩した。
 比喩なくふらつきながら嘔気をこらえ風呂だけはなんとか入って、布団に倒れ込むように横たわるも眠れないのでぼんやりここ十年以内くらいの自分の作品を並べて考えてみるやつでもやるかと思い立つ。普段はそういうことはしない。なにせ作った作品のことをなにも憶えていないから。たまたま最近は次の映画の公開キャンペーンで過去作を期間限定で公開するために目にすることが多かったのです。

 さて、かえりみれば、'14〜'18の「夢で逢えた(ら)」→「幽霊たち」→「笹口騒音ハーモニカ、周縁」→「て、ん、め、つ」→「意味なし人生ちゃん、宇宙へ」→「笹口騒音ハーモニカ捏造」っていう流れは興味の推移がかなりわかりやすいグラデーションになってて、設定としてそこにいるはずのない者(だけど私はいると思う)の存在感が"私"っていう現在的な主観から、もっと根拠として説得力のある"過去の時間"に担保されるように向かっていったんじゃないか。
 ロマンチックを引き換えにしても、いない(いなくなった)者の存在証明にかなり固執していた。なぁぜなぁぜという感じではあるけど。フラレたりしてたからか?

あ、おばあちゃんとおじいちゃんが死んじゃったからか。

 〜「意味なし人生ちゃん」くらいまでは自分が信じていれば存在が保証できると信じていたのが、祖父母が死んじゃったことのリアリティによって「結局現実には抗えない」と思わされて、それで「いなくなっても、いた過去は存在する」みたいな方向へ行ったのか。きついね。
 そのあと'19に「かみしも」が来る、かみしもは現実に存在する相手VS実際には存在しない相手の対立があって、で結局なにもかも投げ出すみたいなオチだったと思うんだけど、それは決着じゃないしなんというか、らしくない。当時すごく迷走してたんだろうし、周りからみても痛々しかったと言われる。良くも悪くも憶えてないけど……。

 迷走の末、映画を自分なりにいろいろ勉強して、「1-4」「複製」「ミラキュラスウィークエンドエセ」で都度あれこれ試してみて、そのあとに読書習慣がついてたくさん本を読むようになって、且つ映画界のハラスメント問題を眺めている中で、現在の嗜好が出来た感じがする。
 現時点から'14〜'21くらいの自分の志向の変遷を省みれば、現在/過去/未来っていう種別はあれ、時間とその中にいる(いない)者についてばかりをずーーっとしつこく考えている。新しい2本の映画も、そのつもりはなかったはずが書いたものを読むと時間と(不)在者についてである気がする。

いま自分がかなりそれを描かなければならないと考えている"希望"という概念については、これまであんまり露骨には書いてこなかったけど、新作2本はそれぞれ別の形の希望に着地する。
 明確なハッピーエンドをやらなかったのは、結局自分の水準ではハッピーエンドをやらなくても良いとされたのんびりした時代だったからで、だけど現代はもう映画くらいハッピーエンドにしないとしょうがないほど暗いので、ちゃんと明るい未来に向かいたいものです。長い振り返り終わり。

20230804

来る!/来た!/行く?



 ユスターシュの特集上映がついに来る。
来る、来ると噂は今年の初めくらいから聞いていたけど具体的な情報は全然なくて、だからいつになるんだろうと思っていた何ヶ月かがあった。その間、私は色んな映画を観たり本を読んだり音楽を聴いたりして、ユスターシュ特集上映を思い出さないふりして過ごした。それでも情報解禁を目にして、やっぱり待ってないふりして待ってたんだなと照れてしまった。予告篇観たよ。
「人生は一度扉が閉まると元に戻れない世界とは違うと思う」という台詞があった。めちゃくちゃしびれるじゃん!!!!!!!

「人生は一度扉が閉まると元に戻れない世界とは違うと思う」という文章に出てくるすべての単語を知ってたのに、こういう順番で組み合わせたらこんなに新鮮な感動をするものなのか。コトバってすごい。こういう時、その文章もさることながら、コトバそのものに感動する。それは発明ではなくて発見。
発明よりも発見の方が、私は好きだな。

 ユスターシュは"呪われた映像作家"だとか”伝説の監督"だとか言われていて、それは自死による早逝とか、作風だとか映画理論とかの特異性に由来してるのかもしれないが、私はユスターシュの映画を観たことないので、呪われているのかは知らない。しかし"伝説"とは思う。それはシンプルに観ようと思っても観られないからだ。何作かはDVD化されているが、手にしようとすれば何万円もする。何万円も払ってDVDを買う気にはならない。それがどんな作品であれ。そもそも私はユスターシュの映画を観たことがないのだから、何万円も払う根拠がない。

 ではなぜ私はこんなにドキドキしているのか?自分でもよくわからないのだが、やっぱり【ジャン・ユスターシュ】って名前がカッコいい!っていうのが一番手前にあるように思う。我ながら呆れるけれどこの名前がカッケェから観たいというのって、あるだろう。ない?本当に?あるでしょ?タイトルでもいい。あるだろう?
映画監督の名前、カッコいいのが多いっていうのは誰かとも話したことある気がする。
それはたとえばジャン・ユスターシュ、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ヴェルナー・ヘルツォーク、ミヒャエル・ハネケ、リチャード・フライシャー、カール・テオドア・ドライヤー、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ロベルト・ロッセリーニ、オタール・イオセリアーニ、アッバス・キアロスタミ、アキ・キアロスタミ、ギヨーム・ブラック、ジャック・ロジエ、ジャック・タチ、ピエール・エテックス、ロバート・アルドリッチ、ギャスパー・ノエ、ハーモニー・コリン、エミール・クストリッツァ、岡本喜八、成瀬巳喜男、増村保造、小津安二郎、堀禎一。

──とにかく、ユスターシュ特集を本当に楽しみにしている。ツウは全部観るのが当たり前なのか、そりゃ全部観られたら良いよね。おれだって気持ちの上では全部観たい。でも、結局ひとつとかふたつしか観ないのかもしれない。だけどさ、”結局"と冠される未来がどうなるとしても今、「本当に楽しみ」と思っている。それが素敵なことでしょう。ね!ね!


 楽しみといえば、ずっと楽しみにしていたマーガレットズロースの新譜「NA NA NA」を聴いた。本当に素晴らしかった。マーガレットズロースを聴いている時だけ触れられる心の箇所がある。新譜の曲から一部引用する。こんな言葉の組み合わせが、まだあったのだ。

知らないきみに会った
まだ生まれる前のきみ
とっくにいないきみを
屋根に上って見上げた
深い夜空の底、過去が未来と重なった
こっちに来るまえはどんな生き物だったの?
通りを歩いたら街できみの化石が出た
光の言葉で手紙が降り出した
本当さ、僕らは遊びに来たのさ
楽しいことだけ 星の数だけ


──そっちは最近はどんなの聴いてるの?教えてほしい。
「NA NA NA」は聴いた?好きなのあった?当てっこしない?
ていうか八月十八日から空いてる日ある?
もしよかったら渋谷でユスターシュの映画観ない?面白いかはわかんない!観たことないから!
でもなんかドキドキするの。これっきゃないって感じなんだ。ジブリ観た?まだだったらそれでもいいよ。「君たちはどう生きるか」だってやんの、ほっといてくれよね。ネー

20230722

メロンソーダ/雛鍔と関係のない夢

 西村りっちゃんと久しぶりに会う。毎度久しぶりな感じ、別にしないんだけどそれでも毎度ちゃんと前回からの日数を数えてみれば折り曲げる指の単位は日でも週でもないね。

 我々の「会う」とはどこかへ遊びに行くでもめずいモンを食うでもなくて喫茶店で最小限のコーヒーによって何時間も粘るというのを指すのだけれど、粘りながらロマンチックな言葉とは何かねというのを今回は話した。それ前も言ってましたよと何度か指摘された。

 平日だったのに混んできたから退店せよと店に請われて、外に出たら夕方の風が気持ちよく、そのまま散歩がてらと別の街の喫茶店まで一時間とか一時間半とか歩く。何を話したろうか。夕暮れだねとか夕暮れが綺麗だねとか夏にしてはまだ涼しいねとかオレが大谷翔平だったら恋に困らねぇと思うねとか大谷翔平が考えるモテたいとはおそらく我々の考えるフェーズにはもうないとかそういう話をして、喫茶店に着くころには普段そんなに歩くことなんてないからか二人ともドッと疲れてしまった。あとからズピピも来て、ズピピは静かに文庫本を読んでいた。私は西村りっちゃんにたしか何かしら面白かった本の話をして(どうせそういうことしか話題を持ってない)、喫茶店のマスターにおもしろそうな本を教えてもらって、いつもよりは早く解散となった。


 帰り道でふと、「しびやさんは喫茶店でいつもメロンソーダを頼むんだ。だから私にとってはしびやさんといえばメロンソーダなんだ。メロンソーダを見るとしびやさんを思い出すわ」というようなことを何回か言われた時期があったことを思い出した。私はその時もその人の前できっと緑色した炭酸水を注文していて、だから言い当てられて相手の満足そうな顔に恥ずかしいような気持ちになった。その気持ちまでセットで思い出せる。

けれど、あれはいつのことだったのか、そして誰に言われたんだったのかは思い出せない。しばらく考えてみたがどうしても思い出せない。はて、私はどのような人たちとつるんで仲良しを営んでたのだったかしら。何人か数えてみても、折り曲げる指の数からこぼれ落ちた人たちがいる気がしてならない。

 いつからか、私は喫茶店に行ってもメロンソーダを注文すること自体なくなった。それもいつからだったのか。あんなに通った不二家もカフェ珈琲館も珈琲西武も巴里もトップも珈琲タイムスもめっきり足を向けなくなった。ていうかそのうちのいくつかは店がそもそも消滅した。波にさらわれた浜辺の落書きのように、洗剤に漂白されたシャツの汚れのように、まるでそんなの最初から無かったみたいに想起の限界範囲は更新されていくね。私は自分の忘却機能に全然悲観的ではないのだけど、感傷を伴わないカラカラに乾いた寂寥には時々、眺めるようにして対峙することがある。



 志ん朝の「雛鍔」を聞きながら寝たら変な夢を見た。雛鍔には少しも関係しない。

 夢の中で漫画を読んでいた。赤と黒の同じデザインで統一されたノワールものの作品で、半グレみたいな友達グループが悪さを繰り返す中で少しずつ仲間を失っていって、最後に残された主人公が鉄筋の小部屋にひとり座り込んでいる。恐る恐る見る窓の外にはパトカーや警官の群れがあって、もうすぐ捕縛されるであろうことを彼は悟っている。しかし、なぜか警官は部屋に突入してこない。なんとなく不思議に思いながらも、しかしこの歪な時間は、まもなく、あっけなく、終わるんだろうと彼は予感している。泣いたり悲しんだりはしない。

 漫画から顔をあげると、そこは実家で、身内の一人がここにはおよそ書けないような嫌な罪を犯した事がテレビのニュースで流れている。うわーっと思うが、しかし同じ部屋に当人がいる。慌てるでもなく、お茶なんかを飲んでいる。もうすぐこの家に警察がやってくるのだろうか。なすすべのない気持ちで、テレビに映されているこちらに生気のない視線を向ける身内の顔写真と、それを眺めている本人とを交互に見た。こうやって誰もがまえぶれなく終わることになるんだ、と思った。

20230715

ティルイット・ルル・リリ

 昨晩から編集作業朝まで。毎度インスタグラムで募集する「休憩中に聴くオススメ音楽」だけが楽しみ。

 朝から少し寝て、疲れの取れぬまま起きて炊飯をしたら、もう三年くらい繰り返しているはずの作業──つまり「炊飯」のやり方がわからなくなってしまったのか、炊飯ボタンと保温ボタンの意味の違いがわからなくなったのか、3合の米をただ数時間保温しただけの生米が出来上がってしまい、しかしそうと気づかず食べて、はじめて米を食べてマズッと思い、炊飯器がイカれたんだとやるせない気持ちになる。これが都市生活者の孤独だ。自分の失敗に気づいてもやるせなさは消えず、教訓はまだ冷凍庫の中で保存されている。捨てる気にはならない。百姓の家系だから。早口言葉以外で「生米」なんて使う日が来るとはね。

 午後からだらだら別の作業をし、喫茶店でつないだ映像をチェックし、修正点をノートにメモして、ということをしてたらそれが終わった瞬間にドッと疲れが押し寄せて来て、本も読む気にならず、もうダメだと思ったが、なんとか西友にだけ寄る。

 家に帰って、スパンクバングでywfwrinrinを観て、しかし孤独感はつのり、本格的にもういいやという気分で寝る。エアコンをつけずに汗かいて寝るほうが気持ちいい。

 夢では図書館に行った。
「君たちはどう生きるか」、まだ観てないけれど、「君たちはどう生きるか」のノベライズという本があって、それはなぜかタイトルが「君たちはどう生きるか」ではなく「ティルイット・ルル・リリ」という題で、青空の下の砂浜でボケっと立っている男の子と、その切り返しとして彼の視線の先に黄色い灯台が建っている二つの絵が上下に並んだ、美しい装丁であった。
良いタイトルだなと思って目覚め、自分の無意識に頼もしい気持ちになる。なにかに付けようかな。ややスッキリして風呂に行く。

 銭湯に行く途中で、近所のタイ料理屋の軒先にある排水管から水がチョロチョロと出ていて、夜道に小さな小さな水たまりを作っていた。
それを眺めていると、なんとなく、私の今日という日はこの小さな小さな水たまりに立ち止まるためにあったような気分になり、だから少しの間眺めた。これは何かの比喩でも示唆でもない。小さな小さな水たまりとは、ほんとうにあの、小さな小さな水たまりだけを指している。それが大切なことだ。

20230701

ロバート・A.ハインライン「夏への扉」感想

 あらかじめ申し上げておかなければならないのだが、私はSF小説を全然読んだことがない。読んだことがあると言ってもせいぜい──「読んだことがあると言ってもせいぜい」と書いたものの、何一つ思いつかない。ゼロってこともないのだろうが今この時点で「あれはSF小説であろう」と看做せるタイトルが一つも浮かんでこないし、わざわざ遍歴を紐解いて検証するに見合う成果が得られないのはわかりきっているので、やめる。何かを思い出すまで、「夏への扉」が私の初めて読んだSF小説ということで、もう、いい。
 私がSF小説に疎いのもべつだん苦手意識があるとか忌避してきたということではなくて、単純に他人から薦められた本の中にSFジャンルがなかったであるとか、図書館でてきとうに棚から引き抜いた本のジャンルがSFではなかった、程度の意味しかない。苦手と思うにも素地が要る。チビだった時分に読んだたくさんの絵本や児童向けの物語の中には、きっとSFだってあったろうと思う。小説に限らなくても今マジで「ドラえもん」しか思いついていない。SF(すこし・不思議)でも良いのならばであるが。
むしろというか、だから私にとって「夏への扉」は非常に幸福な出逢いで、今まで誰からも薦められなかったSF小説を人に薦めてもらったことに私は大きな意味を感じる。出逢いがなかったことは「その程度の意味しかない」という言葉で済ませられるが、出逢えたことにその言葉を使うことはできない。アンフェアであろうと私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。

 ちょっと調べたところによれば「夏への扉」は世界中の読者に支持されながらも評論家だとかSF専門家にはそこまで支持されていないとのことだが、私はいち読者であるし前述の通りSF初心者でもあるから、「夏への扉」についてSFとしていかがなものなのかという分析はできないし、また興味もない。私はとにかく「おもちおーい」と、ピノコか未就学児みたいな語彙で、つまりフレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!な気分で小説を読んだ。以下にだらだらつづける文章は、だから全文それを踏まえている。実際に松田聖子も聴いている。いま。
 資料によると「夏への扉」は1957年に発表された。舞台は1970年であり、また2000〜2001年ということになるが、つまり(2000年はともかく)1957年から展望する“1970年“というのは、フィクションでありながらもある程度こうなる可能性のリアリティを読者に違和感なく感じさせたということか。私がそれを面白いと感じるのは、コールドスリープもハイヤードガールもダン製図機もタイムマシンも発明されなかった1970年や2000年を経過した2023年に生きているがゆえではあるのだろう。私はその“結局小説のような未来にはならなかった”ことを、好意的に思う。そこにはニヒリスティックや冷笑を伴わない。小説は(そうなるかどうかはともかくとして)予言書ではない。ハインラインだってそんなつもりはないはずだ。いかに描写にリアリティを伴っているとしても、作者は「こんなこといいなできたらいいなあんなゆめこんなゆめいっぱいあるけど」の精神で未来を小説にしているのだと思う。これは「夏への扉」が図書館のY.Aコーナーにあったことから、「ドラえもん」の引用にいささかの後ろめたさもなく言える。1957年のアメリカは冷戦下であり、世界大戦直後から始まった核爆弾をめぐる国際的緊張の中にあった。国内の暮らしは(作品内の“1970年“にもあるように)家庭用電化製品や自動車の普及で中産階級にとっての利便が安定したとも言えるが、それは裏を返せば格差の拡大が如実であったということだ。そういう、おだやかさと殺伐さが表裏一体となっていた時代のムードにあって、社会的な小説を発表していたハインラインが情勢を度外視して「夏への扉」を書いたとは、私は思えない。それは小説の冒頭と結末を読めば自然に感じられることだ。ハインラインが「夏への扉」で描いていることは、清濁混じるかりそめの安寧の中にあって時代に流されずに明るい未来を想像し行動するということだろう。表題されている“扉“というのは、この小説においては(後半の展開も鑑みるに)“可能性“とかそういうものを表しているのだろうが、11+1つもある扉のどれかが夏に通じていて、尚且つどれか一つしか開けられないわけではなくて、あくまで“どれか一つが夏に通じている”と言うにとどめるというのが、グッとくるじゃあないですか。主人公は会社を仲良しの男と設立したけれども、嵌められて失敗するわけで、しかしながらもう一度会社を設立するに至る。嵌められた時と同じように、仲良くなった男を信用する形で。もしくは結婚に至らず終わった恋を、今度は結婚の形で。この形式上の反復がすごく大切で、たとえば「痛い目を見たから今度は一人で」などと主人公が思ってしまうのでは、“失ったものを取り戻すために過去に戻ってやり直す“という、タイムトラベル形式の構造をなぞるにすぎなくなるし、もっと言えば、「一度失敗してしまったら、それは結局繰り返されてしまうんだ」という厭世観みたいなものを読者の無意識に教育することになってしまう。そうではなくて、違った状況でありながらも同じ形式で反復させることこそが、「過去の失敗は取り戻せる」ことに通じる。タイムマシンもコールドスリープも存在しない現実を生きるY.A読者層が11+1の扉を、一つ二つがダメだとしても、それでも夏に通じるまで何度でも開け続けるために。何度だってやり直せる。そんなのって現実的じゃないぜと誰かが嘯いても、私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。クーラーで冷やされた部屋の扉を開ければ、ついこないだまでは寒かったのに、今度は夏に通じている。

20230616

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の彗星」感想

・調べたところによるとこの小説は1946年に書かれた初版を1956年に改訂し、さらに1968年に三訂されようやく完成したらしい。私がこれまでもこれからもそして今まさに書かんとしている文章も、パブリックな力を持ったりや作者の意図への正確な責任を考慮しない つまりはただの「いち読者の感想文にすぎない」という前置きをするために、この1968年版(三訂版)についての不思議な感慨を先に書く。
 この小説は彗星に比喩される“世界の終わり“がモチーフとなっているが、そのモチーフを思ったときに安直に私の心に浮かび、読書後に真っ先に聴いた音楽がある。なんであろう、ミッシェルガンエレファントのデビューシングル「世界の終わり」である。安直というのは既に告解している。
歌詞を一節引く。

 世界の終わりがそこで見てるよと
 紅茶飲み干して君は静かに待つ
 パンを焼きながら待ち焦がれている
 やってくる時を待ち焦がれている
 世界の終わりはそこで待ってると
 思い出したように君は笑いだす
 赤みのかかった月が昇るとき
 それで最後だと僕は聞かされる
 世界の終わりはそこで見てるよと
 紅茶飲み干して君は静かに待つ
 パンを焼きながら待ち焦がれている
 やってくる時を待ち焦がれている

「ムーミン谷の彗星」を読まれた方は、なんというか奇妙な、そして微妙な類似性を感じるのではないでしょうか。私にはこの曲の歌詞と小説とを関連させて感想文を展開させるほどの思惑も技量もないのだが、なんか似ているというか、私が「ムーミン谷の彗星」を読みながらこの曲を思ったというのが確信を欠きながらも、しかし提出せずにはいられない感慨なのである。“セカイノオワリ“という音だけならば、「Dragon Night」でもいいものなのに。不思議だね。
またこのミッシェルの歌詞は冒頭に「悪いのは全部 君だと思ってた」とあるが、これは小説の中でスニフが何度も口にするぼやきでもある。不思議だね。
 こじつけと言われればそれまでで、申し上げた通りこれ以上の展開はないが、私の感慨を担保する余計なトリビアをもう一つだけ。
ミッシェルガンエレファントのボーカル・「世界の終わり」作詞者であるチバユウスケの生まれた年というのは、完成版の書かれた1968年なのである。不思議だね。前置き終わり。



・「ムーミン谷の彗星」は、題の通りムーミン谷に彗星が落ちてくる、それまでの数日間の物語である。ムーミントロールとスニフは、宇宙の広大さと自分達の存在の軽さを哲学者に吹き込まれ、宇宙の広さを知るために天文台へ向かう。その道中で出逢ったスナフキン、スノーク、スノークのおじょうさんらと、彗星が地球に衝突する日までに家へと戻ろうと冒険する、というのが大体の筋であるが、感想文で筋を説明したところで意味なんかない。これは私が今、自分で自分に改めて小説を確認させるために書いた。

 彗星が衝突するとどうなるのかというと、地球は壊れ、自分達はぐちゃぐちゃになって死ぬ。アニメやなんかに因るパブリックイメージとしての「ムーミン一家」の物語とは随分毛色の違う印象があり、常に差し迫っていく制限時間とそれへの不安やぼんやりした恐怖が小説には通奏している。
 しかしながら、私がこの小説に最も感動したのは、冒険物語としての面白さだったりや、スナフキンの言う「冒険物語じゃ、必ず助かるんだ」というメタチックな予言および希望が前面ではなかった。そういったストーリー全体が言わんとしていることよりもむしろ、世界が段々と終末に向かって不穏さを増していく状況にあって、初恋に直面し浮かれまくる主人公ムーミンとスノークのおじょうさんら二人のイチャイチャこそが、私の胸を揺さぶったのだ。
ひたすらに浮かれつづけるのは二人だけである。スノークのおじょうさんの兄であるスノークやスニフ、スナフキンら旅の一行メンバーは、とぼけてはいてもそれぞれ彗星に現実的に恐怖し、また避難を志向している。その避難先として無根拠ながらムーミン谷を目指している。しかし、ムーミンというのはそれとは違って、一発で大好きになっちゃったスノークのおじょうさんを単純に自分の家に招くために家路を急いでいるのだ。ママにケーキを作ってもらうぜとか言っているのだ。どう考えてもそんな場合ではない。世界の終わりはもう目の前で、世界が終われば二人にだって未来はないはずなのだから、二人の未来のためにも勇敢にならなければいけないはずではないか。と、あまりにも見せつけてくれるカップルを見て、ないし疲弊と苛々を募らせていく他のメンバーの背中を省み、私は考えたが、「本当にそうだろうか?」という思いが湧き上がってきた。

 私たちはいつか必ず死ぬ。世界はいつか必ず終わる。
 生まれてくるということ、今ここに存在することは、“いつか必ず終わりが来たる”という、世界との約束をしているからこそ成り立っている。私たちは有限な時間の中で、ときに死に怯えながらもほとんどは約束の期日を意識せずに過ごしている。明日突然死ぬかもしれない。いつかやってくる約束の日の“いつか”は、私たちの都合を考慮してはくれない。
 であるならば、私たちもまた、世界の都合を考慮することなんかないとも言える。来年、来月、来週、明日に死ぬとしても、今日誰かを好きになってもいい。好きになったコとダンスを踊ったっていいのだ。私は恐怖や不安の克服・回避に反対しているわけではない。恋に代表される人生の歓びとは、TPOに関係しないのだと言いたいのだ。なぜか? 私たちは人生を楽しみ、歓び、幸せになるために生まれてきているからだ。そのことだって、世界との約束に含まれているのだ。

 私が感じた上記のことは、私の志向であり、そして私の出逢ってきたすべての人への祈りでもある。
トーベ・ヤンソンは、女性の社会地位の不安定さや当時のソ連との長い戦争からの敗戦の痛み残るフィンランドでこの児童文学を書いた。
児童文学の本懐とは、明暗の点滅する未来をこれから歩みだす子どもたちに対して人生の豊かさを保証するところにあるはずだ。

20230615

J.M.クッツェー「恥辱」感想

 序盤で、ブレイクの預言詩(プロフェシー)からの引用「なさぬ望みを胸に抱えているより、みどりごはその揺籠で殺めよ」があり、最近大江健三郎読んでた身としては──というか『個人的な体験』の主題というのはこの詩この箇所であったから、まるで読書という行為によって別の本が引き寄せられたかのような錯覚をおぼえた。そうでなくともこの小説にある"犬"および"犬殺し"というモチーフは大江のデビュー作『奇妙な仕事』に通じているわけで……なんというか……南アフリカの作家が書いた小説を読みながら日本作家を感じるというか……つまり……こう……ジュディ・オングが歌うところの"Wind is blowing from Aegean"というか……"好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る"というか……"Uh Ah, Uh Ah"っていう言語外の気分になった。

 原理として気分というのは言葉にならない。"気分"でなくともいい。"感覚"でもいい。 言葉というツールは人間が利便性と効率のために創造したにすぎず、気分だとか感覚だとかいうのは犬にだってある。山羊にだって羊にだってある。それでは"恥辱"というのはどうか。これも人間特有ではなく、おそらく動物にもあるだろう。本当にそうか?

 主人公のデヴィッド・ラウリーは都会で暮らし、年齢を鑑みれば過分な性生活をしている。大学教授の職にありながら、甲斐を感じず、オペラの執筆を夢想している。読み始めた当初はシンプルに胸糞悪いジジィめとだけ思っていたが、スキャンダルで査問会にかけられるシーンでのデヴィッドの行動はそれまでの読者の抱く認知と外れたしらこい態度になっている。それは老成や達観もしくは諦念というよりは無関心であり、とにかく更生をしないというその一点の執着によって支えられている。しろよ。と思うし、田舎の娘を訪ねた彼がかの査問を「恥辱」と看做したことには違和感がある。恥辱とは査問会のメンバーが彼に強い、しかし成せなかったことだ。
それをして恥辱とは、文字通り厚顔無恥であると私なんかは思う。ある種の倫理的欠落によって恥辱を免れたデヴィッドは、しかし彼の(おそらく)教養に立脚した社会性への無関心よりもさらに厳格な「田舎の現実主義」に敗北する。田舎における現実主義とは、自然およびそこに生きる動物たちの摂理である。弱肉強食があり、食物連鎖がある。生きるために屠殺があり、存続のために搾取がある。そこには理想や希望ないし絶望という目に見えないものの介在する余地はなく、ただただ生命がその原始的な本能に因って活動するひとくさりの時間と事象だけが連続する。
 デヴィッドは娘宅への襲撃に端を発する田舎の現実主義に対して、今度こそ"恥辱"を味わうことになる。SNSなどで小説の感想を眺めていたら彼の怒りはお門違いであるなぜなら彼もまたレイプまがいの性的搾取を行使していたんだから!というのがあったが、娘宅への襲撃における強姦と、デヴィッドが都会で行なっていた性生活は前提の俎上が異なっている。デヴィッドが行っていた買春や教え子との姦通は、そのどちらもが資本主義的もしくは権威主義的な立場の上下関係において行われている。だから端的にセクハラであり性暴力である。田舎において行われる襲撃と強姦は、田舎の現実主義のもと"厳格に"行われており、だから襲撃者たちは被害者に対して"怒りをおぼえながら"暴力を振るったとされている。つまり田舎の現実主義の前に倫理や法律という都会の視点を持ち込んだところで無意味なのであり(逆に都会ではそれが絶対のものとしてあるのでデヴィッドは裁かれるわけで)、その、都会の倫理観が田舎の人々たちの意に介されないことこそがデヴィッドの恥辱の本質なのだと思う。都会と反りが合わずに半ば意識的に離脱した彼が田舎に排斥される。宙ぶらりんな状態で不満と怒りは募っていくだろう。

 小説の裏書に「没落する男の再生」というようなことが書いてあったが、この小説における"再生"とは何か。
人間性を取り戻すことが再生なのだとしたら、ある意味ではそれは叶っているのかもしれない。上述の「田舎の現実主義」の前に、カッコつけた無頼のそぶりが打ち砕かれて、自分はどこまでも資本主義的ないし権威主義的であったと無意識であれ打ちのめされるということか。しかしながら、「再生」がこの小説の着地点に据えられていると前提すれば、彼の消極的な都会的倫理観のめばえというのは結末ではない。ゆえに再生とはおそらくこのことではない。小説の結論としての再生とは、都会的倫理的から本格的に脱され、つまりもう二度と、都会で通用する"人間の心"みたいなものを取り戻せなくなるまで自然に回帰することだろう。愛着をもった三本足の犬を、愛着を持ちながらにしてなんの感慨なしに屠殺する。「犬たちに分からないのはあの部屋の奥で何が行われているか」と書いてあるが、本質においてデヴィッドも分からなくなっている。生命を奪うことや暴力を振るうこととは、そこに大いなる意志が介在するものではなく、もっとあっけないただの事象である。この小説では自然回帰を「犬(のよう)になる」と表現している。犬が動物の象徴というのはおもしろいと思う。犬とはそもそも太古、人間によって、人間にあわせて改造された動物だからだ。人間のためにつくりあげられた犬をして、人間の対極に比喩されている。ここにはねじくれた冷笑がある。私はそう思う。それゆえに、まだ私は都会的倫理観のしもべたる人間であると自分で思うが、クッツェーからすれば未熟と看做される状態なのだろうか?

20230605

高校生が書いた日記

 スパルタローカルズの季節が来た!!!!!!!!!!!!


・高校生の時代からもう500回くらい季節を繰り返して、それでも聴くたびにまるではじめて聴いたみたいな感動を起こさせる音楽がある。あなたにだってあるだろう。
 私においてはスパルタローカルズとフィッシュマンズとマーガレットズロースがそれで、この三つのバンドがおおよそ私のすべてのムードみたいなものを作り上げているから、三者の音源を全部聴けばおおまかに私という人間の感性におけるすべての側面を把握できるだろう。そんなことしなくていいけど。
 とにかく自分でもビックリしている。何万回と聴いてる音楽を聴いて衝撃を受ける。なんて素晴らしい音楽なんだ、スパルタローカルズ!!!!なんでこんなに胸がドキドキするんだ!!!と叫びたくなる。夕暮れの交差点、信号待ちをする私をよく見れば、頭と四肢が揺れている。彼はこっそり踊っている。


・私は音楽の趣味というのは聴者の数だけある方がいいと思っている。それが時々交わったり、交わらずともかすめたり、全然ねじれの位置にあったりするようにして、個人の群れが音楽を聴いている。それが良いと思っている。それを踏まえての話になるが、音楽の趣味──スパルタローカルズを例に挙げて、高校生の時分に夢想した「私の考えるロマンチックとは何か」という趣旨の文章を以下に転載する。初出は当時の私の日記である。エントリーはyaplog!サービスの終了と同時に日記帳ごと消滅した。そこには"助かった"という思いが常態にあるのだが、ティーンネイジへの懐古に伴う特有の恥ずかしさを自認しながら、さらにそこに上塗りするように再掲載をするのは──この告白が三つ目の恥ずかしさにあたるのだけれど、"私が当時と何も変わらない"ということをスパルタローカルズを今日、さっき、聴いて、思い知らされたからだ。マゾなのかしらと弱く笑ってのち、自戒にも似た貌で、私はあらためて自分の想うロマンチックの趣を開覧する。



20230604

大江健三郎「新しい人よ目覚めよ」感想

・鶴見俊輔による解説の中の以下のセンテンスがこの連作短篇における大江健三郎の祈りの核と思う。

 詩は定義する。読者にとって、そのように詩をうけとる時がある。詩の定義の仕方は、数学が定義する、自然科学が定義する、社会科学が定義するのとは、ちがうはたらきで、この言葉をもってこれから生きてゆけば、この領域での経験に関するかぎり、これでやってゆけるという予感をあたえる。



・「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」の中に、今まで小説を読んでいてあまり感じたことのない類の感動があった。それは動揺と言ったほうが正しいかもしれないほどになじみのない心の揺れだった。当該シーンは、いつか来たる自分たちの死について長兄のイーヨーに咎めた言い方をした両親に対し、イーヨーの弟妹が反撥するという箇所で、弟が次のように言う。

「──イーヨーは、人指ゆびで、まっすぐ横に、眼を切るように涙をふいていたよ。 ……イーヨーの涙のふき方は、正しい。誰もあのようにはしないけど……」

このセリフの良さ、いやセリフじゃなくて、この切実な想いとイーヨーの泣き方を見て「正しい」と弟が看做すに至る根拠というのは、おそらく「言葉」とか「論理」の外側にある。言い換えれば私たちの外側にある世界の理のようなものに感応したということかもしれない。いやこんなふうに分析というか言及すること自体があまり良くない。この良さ。言葉にできない良さが強烈にある。私はここに、かなり興味がある。

20230512

アニー・エルノー「シンプルな情熱」感想

 紹介文に「その情熱はロマンチシズムにはほど遠い、激しく単純で肉体的なものだった」とあって、さぞエロいんだろうと思ったが別にエロくなく──いや……!今「別にエロくなく」と書いた途端に「いやエロいな?」と思い直した。そしてこの感じ直したエロさというは何かというのを考えた時に、冒頭の紹介文への違和感が立ち上がる。筆致に即してべつだん過激な性描写があるわけではないこの小説に私が感じるエロさというのはおそらくロマンチシズムに由来しているからだ。そこでロマンチシズムとは何かということを考えてみるが、この「ロマンチシズムとは何か?」というのを考えることこそがおそらく私の「シンプルな情熱」という小説自体への感想文に代替すると予感する。
 ロマンチシズムもしくはロマンティックとはいかなるものか。まず安直に浮かぶのはそれが目に見えないということで、しかしそれこそがおおよそ正解であるようにも思う。ここでいう目に見えないというのはたとえば客観を排してるとか物質的な質量をもたないとかに言い換えることが可能ということだが、しかし"存在しない"とか"肉体的でない"というのとは違う。
 いかにとっぴな妄想であれ、夢想であれ、(この小説にある)回想であれ、それらが頭に浮かんでいる状態には肉体性が伴うと私は思う。だからたとえば性欲にかられた妄想によって自慰行為ひいては現象としてのオルガスムは起きるし、楽しい夢想で頬が緩み、悲しみの想起で落涙する。私が定義するロマンチシズムというのは直截な意味での"甘美"のムードを必要としない。どんな種類の妄想夢想回想であれ、その想像行為自体によって身体に引き起こされるのは陶酔であって、また陶酔はえてして甘美なるものだからだ。つまり想像とはそもそもが甘美なのだから、"妄想夢想回想のうち甘美なものをロマンティックとする"という前提を私は無意味に感じる。

 「シンプルな情熱」が"激しく単純で肉体的である"というのはその通りだと思うが、しかしロマンティックでないというのには以上の点から懐疑的なのである。"激しく単純で肉体的でかつロマンティック"なのである。そしてその、直截的ではなくあくまで"現在そうではない肉体"が、恋情にまつわる回想を意識に巡らせているという、二重のレイヤーを一つの身体に宿らせている複雑な状態(a)は、単純な性描写(それは肉体と意識が同時性を持っている)が続くポルノ(b)よりもずっと、グッと匂い立ってエロい、と私は思う。なぜグッと匂い立ってエロいのかについての説明は野暮というか、(a)の方が(b)よりエロいことを語ることは遅かれ早かれ嗜好の問題になってしまうから割愛する。わかんなきゃわかんないしわかるならわかる。嗜好はいつも言葉を超越する。
そしてグッと嗅ぎつけエロがりつつ、「いまここに無い時間/いまここに在る時間」が重なることも交わることもなくしかしひとつの制限領域の中で同時に存在しているというのが、この小説に私が最も惹かれた点だった。

 この小説には以下の四つの時間のレイヤーの存在を私たちに知らしめる。
① 「私」がAと逢瀬を重ねた、"書いている「私」が回想する時間"。
② "①を想起しこのテクストを書いている「私」の現在時間"。
③ ②から数年後の、"②を読み返して①を想起している「私」の現在時間"。
 そして、
④ 小説の出版から時を経て今まさに「シンプルな情熱」を読みながら、"①〜③を追体験的に想像している読者の現在時間"。

④というのはそもそもすべての文章を読む時に発生するのだが、この小説に於いては他の読書体験よりも強くこの④の時間が意識にのぼってくる。それは〈①←②←③〉というそれぞれの時間からの視線によってこの小説が構造されているからで、作品内でもうっすら言及されているが小説が読者によって初めて成立するものである以上、①〜③へ我々読者が矢印を向けるという自覚は必然の浮上である。

 こうした逆流の視線構造はそもそも想起の構造であるのだが、アニー・エルノーが「シンプルな情熱」で描いているのは想起構造の具体例に終わらない。むしろ、かつてあった時間が失われないために書き留めた頁群を読み返すことが、皮肉にも現在という時間が経年によって過去と分断されてしまったという苦痛を実感させる要因になるところに本質がある。この苦痛は苦痛と言いながら痛みを伴わず、文字にすれば矛盾するようだが、だからこそ逆説的な苦痛になるのだ。露骨に提示された想起構造はこの苦痛によって反転し、結局時の流れというのは不可逆であって、あんなに痛んだ傷も知らず知らずのうちに回復するというような当たり前の時間構造こそがゆるぎなく出現する。撮影された傷の写真を見返すことは、瘡蓋のとれたつるつるの肌にもうその傷がないことだけを思い知らすのである。
こういった自罰叶わぬゆえに感傷的になり得ない苦しみが文体の簡潔さに表象されていると私は思うが、それを以って「ロマンチシズムにはほど遠い」とするのは、前述にさんざ書いた理由から、私は違うのではと思うのである。
私たちには明日を生きるために過去を思い出せなくなっていく機能が備わっている。しかしどれだけ思い出せることの解像度が低下しても、過去はなかったことにはならずまた忘れ尽くすこともできない。

「感傷的になり得ない」という感傷は存在する。
昔の恋とはその代表で、「シンプルな情熱」が昔の恋についての小説であるいじょう、ロマンティックでないわけがない。

20230430

2023.4

 撮影が一旦終了。制作部の完璧なスケジュール計画のおかげでつつがなく無事終わった。家で荒編集。二日で終了。30分くらいかなと思っていたが45分あって、びびる。でも必要な長さである気もしている。これ以上は切れないなと思う。翌日にはまあいいかと思うようになった。

 友人のHさんより新作短篇が送られてきて読ませてもらう。新作舞台のオーディションのために書かれたものらしいが、毎度のことながら面白く読み、面白かったですと感想を送ったら「今日締め切りの原稿に追われている、陣中見舞いに来てほしい」と言われ、ロイヤルゼリーを持って家に行く。家に来る頃には終わってるはずだから一緒にピロウズ聴きましょうと言ってたが私はたぶん終わってないだろうと思っており、ついてみれば案の定作業を継続させていたから、自分も持参したパソコンで夏に撮る予定の映画の脚本を書く。途中でQちゃんに読んでもらったりしながら、まあまあ書く。四月中には書き終えたいと思うが、思っているだけかも。
 Hさんの作業は3時間ほどおして、ともあれなんとか終わり、三日ぶりという飲酒をする。私は短篇の、最も心に残った部分の話をし、そこから色々と話す。最近私が読んだ大江健三郎「セヴンティーン」を、面白く読んだがめちゃくちゃグッと来たかというとそういうわけでは実はなく、つまりは身体的な自涜に耽っていたのが政治思想への拘泥に向かうんだけどもそれも比喩としては自涜ですねみたいな話に結する、それは特に広がりを感じるとかはないのではないかみたいなことを言って、Hさんはおもろかった?と尋ねると「オモロ・オモロ・オモロです」と答えるので、先の私の感想以上の先になにがあるのと聞けば「セヴンティーンが描いているのは、思想でも勃起できる、政治でもシコれるってことで、それがおもろいしあまりにも鋭い先見です」と言う。んなーるほどねと思う。
 そこから私の、撮影が一旦終了した映画の話などをしていたら「しびやさんはやはり、保坂には拘泥しないほうが良いと思います。映像ではなく映画に“過去性”を見出してそれをあたかも揺るぎないものとしてしまうのはいかにもつまらないし私には無防備に思えるのです。映画というのは編集やなんやかやの力で過去の映像に現在だとか未来を見出すことができるしそのように作っているじゃないですか。それに、リリカルとは未来にしか宿らないと私は思うから。」というようなことを言われ、んなーるほどねとまた思った。虚勢でも忖度でもなく、これは結構言い当てられた感があり、尚かつ「そうよね」という確認の認識があった。

・I’s「はっぴーえんどろーる」MVを観る。歌詞が付されているのでそれを読みながら聴いたが、あのちゃんのエキセントリックさというのはあくまで端正なビジュアルと態度の差異を礎として、エキセントリックでございと、そのように祭り上げられて宣伝されているに過ぎなくて、書いていること自体はめちゃくちゃありふれているというか現代に生きているかなり多くの人間(それはあのちゃんを見て共感する、一部の孤独主義者にとどまらない)があのちゃんの感じるように感じるしあのちゃんが書くように書くだろうなという言葉の羅列にしか感じなかった。だから売れてるのかもしれないけれど。それは言い換えれば定型の中にしっかりおさまっているということで、先行している何かの模倣であって澄み切った「自分という個性」の言葉ではない。あのちゃんというのはもしかしたら思い切りがいいというのが一番の特徴で、それは身体的な面にしかなくて、要はパフォーマーに過ぎず、本人とは全然普通野、何も変なところのない人なんじゃないか。そうであったほうがいい。そう自身が思えたらいい。健康が第一だから。
 とにかくあのちゃんの書いた詞には系統の先達であるの子だとか大森靖子だとか戸川純だとかの書く詞のような心の打ち方がないと思う。私がダイレクトに心打たれた「世界と自分の軋轢」みたいなものを表す歌詞とは、例えば戸川純のこんなのである。

朝霙まじりの空が白い ねえあの家だけが火事で赤い 誰も気づかないの ああ誰にも見えないの
 もう永いこと知り合いですね いつかの夏、海で花火したね 誰もうなずかないし誰も答えないの」

「ねえみんなあれを見て 青くない空を見て 煙吐く龍のような火が見える 私にだけ 精進してもどうしても見える」

多様性を認める社会であってほしいというのは私も激しくそのように思うが、認められる多様性からすらも零れ落ちるのが孤独とその苦痛であって、その孤独は「死にたい」という四文字では慰められない。生きている中や多様性の中に孤独を見出すのはいつでも自分で、自分からは死んだとて逃げられはしない。怖いことだ。

20230331

文化荘文化大賞2022

本年度文化荘文化大賞が以下の通り決定いたしました。


◯大賞

 メダロット超可動1/12 クロトジル/シンザン


◯大賞最終候補

 保坂和志「この人の閾」

 西尾佳織「緑子の部屋」

 挫・人間「天使と人工衛星」

 

◯選考ノミネート作品

 橋本治「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」


 阿部和重「ブラックチェンバーミュージック」


 佐伯一麦「ア・ルース・ボーイ」


 島田荘司「占星術殺人事件」


 辻征夫「きみがむこうから……


 保坂和志「この人の閾」


 滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」


 西尾佳織「緑子の部屋」


 澤村伊智「怪談怪談」


 岡田利規「楽観的な方のケース」


 三津田信三「ついてくるもの」


 オーガスト・ダーレス「淋しい場所」


 W・デ・ラ・メア「なぞ」


 Jack Stauberdumpstar girl


 aikokisshug


 kurayamisakafarewell


 Julia JacklinPRE PLEASURE


 瀬川おんぷ「北極星」


 佐野元春「約束の橋」


 挫・人間「天使と人工衛星」


 ランジャタイ「礼儀正しいゴリラの作り方」


 ぱーてぃーちゃん「常に心にキッズを」


 肉汁サイドストーリー「あ、無情」


 排気口「アイワナシーユーアゲイン」


 木村美月の企画「幽霊塔と私と乱歩の話」


 Canon sc-2000


 コクと旨味の一風堂とんこつラーメンスープ


 カール事務器 CB-8250-U


 パトリック・ロジェ チョコレートパッケージ各種


 タチカワ フリーペン軸 T-40


 超可動1/12メダロット クロトジル/シンザン


 岸辺露伴は動かない「くしゃがら」


 牧野真莉愛による送辞(森戸知沙希/加賀楓)


 金田一少年の事件簿 アバンからタイトルインへの雰囲気の落差


 サントリー「烏龍茶 ごはんの革命・ラーメン篇」


 TBC「ぜったいトリコにしてみせる篇」


 岡田将生の本気プロポーズ




選考者:ワンダフルデイズモーニング、静谷静一、志水あみ、あさくらなおき

選考日:2023331

選考会場:ドトール西荻窪南口店



○選考者コメント:ワンダフルデイズモーニング

 今年度の大賞に選ばれた「超可動メダロット112 クロトジル/シンザン」はフィギュアである。このことが昨年までと比べて最も大きな差異であろう。私が最も積極的に推した。しかし断っておきたいのは、昨年までの傾向を踏まえた選考であるとか、賞自体の幅を拡大しようとかという偏重な思惑でそうした訳ではないということである。あくまでも全てのノミネート作品を比較検討し、そこで私が最も大きく感動したものを推したにすぎない。それがたまたま今回は例年までと大きく異なる形態であったから、ある見方では異例になっただけの話である。さて最も強く推した者の責務とは、他の選考者のコメントよりも大賞受賞作への想いを語るということにあるのではないかと思う。メダロットのフィギュアというのは「メダロット」発表後今日に至るまで継続的にさまざまなシリーズが発表されてきてはいたが、「メダロット5」登場機体であるクロトジル/シンザンの公式フィギュアは「メダロット5」発表後二〇年間一度も作られることがなかった。「5」およびその続編「G」がアニメ化されていないことが大きな理由かもしれないが、私はすべての主人公機体の中で「5」のクロトジル/シンザンに最も強く心を惹かれていたので、フィギュアの造られていないことに寂しさを感じていた。そしてだからこそ今回のフィギュア化にはひとしおの感慨を持ったのである。とはいえ、それだけの理由、つまり対象そのもの(フィギュア)ではなくてその対象を目にし手にする前までの思い入れは大賞に推す根拠には不十分である。逆にいえば、超可動メダロット112 クロトジル/シンザン そのものは、私ひいては我々の大きな期待と一抹の不安を大きく超える感動をもたらしたのである。クオリティの高さということに関しては、我々は門外漢であるためコメントを控えるが、二体のフィギュアを並べてあらゆるポーズをさせて何時間も友人と大声ではしゃいだ夜があった。あの夜、少なくとも私は自分が小学生に戻ったかのような錯覚を感じたが、振り返ってみれば私は小学生時代ですら、あそこまで無邪気におもちゃで遊んだことなどなかった。子供というのは往々にして大人に憧れ、ゆえに子供でありながら子供みたいにはしゃぐのを堪えるものだ。だがもっと根本的に、私は本当に自分がカッコイイと思っているおもちゃで、そのカッコよさに無邪気にはしゃぎあえる友達がいなかったのかもしれない。この考察は答えを持たないし無意味なのでやめよう。伝えたいことは、そんな時期があったかも判然としないような幻の童心を追体験したあの時間への感動が、私の強い推薦その根拠になったということだ。



選考者コメント:志水あみ

 これまでの大賞作品の傾向と異なる作品が大賞に選ばれたことは文化荘文化大賞の幅の広さを具体的に感じるという点で面白く感じるが、そもそもノミネートされている時点でその形態に有利も不利もなく、すべてのノミネート作品は平等に選考の俎上に置かれるという前提を鑑みれば、異例という言葉は安直のように感じるし、私が先述した「面白く感じる」というのもあくまで結果そのものに対する個人の感想の範疇である。さて私個人としては「緑子の部屋」を推した。ノミネート作品というのはそのどれもが強い感動と鑑賞体験への喜びがその選出において基準となるが、「緑子の部屋」は私個人の大賞推薦傾向である「敗北感」を最も強く感じた小説だったからである。「緑子の部屋」には分岐ないし並列された世界の様相が、私たちの生きている世界および私たちが認識していない世界というものを遠景に据えられた寓話として語られていた。しかしこの「作品における世界と我々の生きる世界の関係性」という感動は、たとえば保坂和志「この人の閾」にも感じたことであって、だから私は「緑子の部屋」と「この人の閾」の二択で選考が対立するのではないかと予想していたが、結局選考は弁証法的に帰結した。私が孤軍奮闘を貫けなかったのは、「緑子の部屋」「この人の閾」のどちらにも強く惹かれ、しかしそれが似たような感動を持つがゆえに迷っている、という選考においてはある種の弱点を抱えた状態で臨んだことが理由なのかもしれない。私は他の選考者の大賞作品への熱意および弁論に納得してしまった。あの場においてそれは敗北を意味した。

 


選考者コメント:静谷静一

 今回のノミネート作品群には例年に比べて一つの顕著な傾向があったのではないかというのが私の意見である。それは当初からあったのではなく結果的に浮かび上がってきたテーマと言い換えることもできるかもしれない。何かというと「切実さ」ないし「懸命さ」である。失われるものへの視線/失われたものからの視線、今ここにあるものへの執着/今ここにないものへの待望、など長く具体的に言い換えればキリがなくなってしまうのでもう控えるが、今回のノミネート群の多くにこういった「切実さ」が宿っているように感じた。並べられたノミネート郡に通底している、かようなテーマを踏まえ、最終選考作品の中では最も今年度の傾向に即す感動を持つ「天使と人工衛星」を選んだが、しかしやや消極的ではあった。消極的というのは先述の「今年度のテーマ性に最も合っている」という理由で推したからというのがあるが、心惹かれる理由というのは具体的な説明を必ずしも必要としないというのもまた思う。「天使と人工衛星」にも具体的な説明を伴わない感動がたしかにあったのだが、他のノミネート作品の多くも持っている「切実さ」でその感動を推し進めるには、逆説的に分散する感覚とそこへの戸惑いがあった。結果的に大賞になった「超可動メダロット112 クロトジル/シンザン」に私は反論はない。むしろそれ自体には物語を持ち得ないオブジェクトな作品が今年度の大賞に収まったというのは興味深く感じる。切実さを語りかけてくることができないはずのフィギュアなる物体が、むしろ我々に対象への切実な想いを呼び起こしたのである。やはりテーマや傾向はいつも後から発見されて然るべきである。蛇足になるかもしれないが、最終候補には残らなかった「岡田将生の本気プロポーズ」にも、私はとても深い切実さを感じた。



選考者コメント:あさくらなおき

 ぱーてぃーちゃんハマってたけど、まぁ大賞最終候補どれもおもろかったんだしそんなかでフィギュアが獲るの珍しい感じになるからそれでいいんじゃないかと思ったけど、そのあと長々と話すことになったからどうやらそういうことじゃないっぽかった。