20230812

おぼえてないことをそれでも思い出す覚書

 六年も昔の自分の映画をたまたま観たらかなり良くて、いや現在の自分とは嗜好もやり方もちがうけれど、それでも現在に至るまで連綿と続く性癖みたいなものを端々に感じとった。
こりゃ世に出さないともったいないなと半日くらいかけて整音しなおして、それをずーーっと観てたら久しぶりにブラックアウト寸前まで体調を崩した。
 比喩なくふらつきながら嘔気をこらえ風呂だけはなんとか入って、布団に倒れ込むように横たわるも眠れないのでぼんやりここ十年以内くらいの自分の作品を並べて考えてみるやつでもやるかと思い立つ。普段はそういうことはしない。なにせ作った作品のことをなにも憶えていないから。たまたま最近は次の映画の公開キャンペーンで過去作を期間限定で公開するために目にすることが多かったのです。

 さて、かえりみれば、'14〜'18の「夢で逢えた(ら)」→「幽霊たち」→「笹口騒音ハーモニカ、周縁」→「て、ん、め、つ」→「意味なし人生ちゃん、宇宙へ」→「笹口騒音ハーモニカ捏造」っていう流れは興味の推移がかなりわかりやすいグラデーションになってて、設定としてそこにいるはずのない者(だけど私はいると思う)の存在感が"私"っていう現在的な主観から、もっと根拠として説得力のある"過去の時間"に担保されるように向かっていったんじゃないか。
 ロマンチックを引き換えにしても、いない(いなくなった)者の存在証明にかなり固執していた。なぁぜなぁぜという感じではあるけど。フラレたりしてたからか?

あ、おばあちゃんとおじいちゃんが死んじゃったからか。

 〜「意味なし人生ちゃん」くらいまでは自分が信じていれば存在が保証できると信じていたのが、祖父母が死んじゃったことのリアリティによって「結局現実には抗えない」と思わされて、それで「いなくなっても、いた過去は存在する」みたいな方向へ行ったのか。きついね。
 そのあと'19に「かみしも」が来る、かみしもは現実に存在する相手VS実際には存在しない相手の対立があって、で結局なにもかも投げ出すみたいなオチだったと思うんだけど、それは決着じゃないしなんというか、らしくない。当時すごく迷走してたんだろうし、周りからみても痛々しかったと言われる。良くも悪くも憶えてないけど……。

 迷走の末、映画を自分なりにいろいろ勉強して、「1-4」「複製」「ミラキュラスウィークエンドエセ」で都度あれこれ試してみて、そのあとに読書習慣がついてたくさん本を読むようになって、且つ映画界のハラスメント問題を眺めている中で、現在の嗜好が出来た感じがする。
 現時点から'14〜'21くらいの自分の志向の変遷を省みれば、現在/過去/未来っていう種別はあれ、時間とその中にいる(いない)者についてばかりをずーーっとしつこく考えている。新しい2本の映画も、そのつもりはなかったはずが書いたものを読むと時間と(不)在者についてである気がする。

いま自分がかなりそれを描かなければならないと考えている"希望"という概念については、これまであんまり露骨には書いてこなかったけど、新作2本はそれぞれ別の形の希望に着地する。
 明確なハッピーエンドをやらなかったのは、結局自分の水準ではハッピーエンドをやらなくても良いとされたのんびりした時代だったからで、だけど現代はもう映画くらいハッピーエンドにしないとしょうがないほど暗いので、ちゃんと明るい未来に向かいたいものです。長い振り返り終わり。

0 件のコメント:

コメントを投稿