20220930

ラブライフ

 ラブライフの素晴らしさの一つとして今ふと思ったことがあって、しかしながらこれがどのくらい観客に感銘として波及しているのだろうか、波及の結果として言及がされているのだろうかという疑問をもった。それは言い換えれば映画としていかほどの効果があるのかという疑問で、なぜならば映画がテクノロジーの産物である時点でキャメラが撮影して編集してひとたばの時間になった過去の光景の中のすべての意味は観客どころか作者たる監督にも分からない時というのはままあって、ままあるがそういう時は大体分からないままエーイやったれとやってしまう方がいいのだが、ともかくフィクション映画の骨子である「ストーリー」と撮影された「現実の風景」には本来的には文字通り異次元の相いれなさがある。その相いれなさの曖昧な折衷点をなすというのが成立した瞬間から矛盾し破綻している芸術としての映画だと私なんかはかぶれ気味に思うけれど、逆に言えば周到に現実っぽさの皮を被りながら現実そのものを排除されて制作されている映画の中で、"相いれなさ"が露出する瞬間にこそ映画的だ!というまさに映画でしか味わえない感動がある。そしてそこには作者の意図が介在しない。

 で、冒頭に書いた「ラブライフの素晴らしさの一つ」というのは、後半の旦那の独白における猫の運動で、なんでその猫にこんなに感動しているのかというと「この人の閾」読んであらためて「書きあぐねている〜」をまた読んでいるからなのだが、プレーンソングにおいて保坂和志が文学の潮流に対して挑んだ実験というのが、まさにそのシーン、そのショットにあるじゃないかと思い出したからだ。

保坂和志は映画にならないとぼんやり思っていた私にとっては、青天の霹靂の思いだった。

20220919

全体講評の時に高橋洋監督が「ミラキュラスウィークエンド・エセを一番に推した」と話してくださった時、私は2020年の冬のことを思い出していた。それはコロナが始まるほんの少し前、雪のチラつく朝七時、中野のベローチェで「映画の授業」を読みながら高橋監督の書かれた章に必死に赤ペンを引いていた時間のこと。

 今もキツいままだけど今よりもっと映画にまつわるあらゆることがわけわかんなくて深刻にキツかった頃だ。


 私は映画が好きで(映画が好きという言葉にすら畏れ多さを感じる)、その"映画が好きだってこと"を(変な言い方だけど)認めてもらいたさというのがやはり、どうしてもあって、それでも全然周りの誰より映画観てないし、「わかってない」ってやつなんだろうなぁ……というシオシオな気持ちがある。劣等感みたいなものだろうか。

 そういう私の作品を、私が考えるところの"巨大な映画人"のお一人である高橋洋監督に「一番推した」と言ってもらえて、こんなに嬉しいことはない。少しだけ自分の肩もんであげたい気持ちになる……

20220909

十三期

 いつかラジオでポコやんが 「家では暗いし一言も話さないですよ」と言ってたけど、いつか現れるであろうポコやんと結婚する人というのはそんなありのままなポコやんでいられる相手になるのだろうか?そんなポコやんですら笑顔にさせてしまう相手になるのだろうか?みたいなことだけを考えていた一週間が私にはある。

 最強百合カプと評される十三期の二人だが、はたして加賀がそのどちらのポコやんをもすら成立させうる相手だったのかといえば私には分からないし、最強百合カプと評していたのは所詮外野たるファンでしかない。ポコやんの、知ってか知らずか個人的な想いを載せずにあくまでメンバーの一人ないし同期(の一人)として綴られたブログに、強い自制を感じせしめられるのは私もまた外野たるファンの一人でしかないことの証明だけど、ポコやん。ポコやん。これからポコやんが、加賀に向ける時にだけ我々も頂戴できていた笑顔は、やはり本当に見られなくなるのだろうか。ポコやん。いつか現れるであろうポコやんと結婚する人には加賀に向けていたのとはまた別の顔を向けることになるのだろうか。ポコやん。たぶんこれからも いやむしろこれからこそ、「わたしは元気担当じゃん!」 の言葉をジャッジメントチェーンに込めて心臓に刺した貴方であるのだろう。そういうすべてを、加賀は分かっているんだろう。ポコやん。加賀。十三期。

かぜのひきかた

「覚書」にて、辻征夫自身がこの詩集を"後日譚つきの幼少年詩篇集"としているが、私がこの詩集を眺め終えて感じ入った感触に名前をつけるにあたりこれほどピッタリな言葉もない。
 それぞれの詩に登場するあらゆる人たちが象徴する幼年期または少年期へのまなざしとは、単純に過去を懐しむだけではなく、翻って自身の大きくなった肉体と、頑丈になった心と、経年にさまたげられる"懐かしむことの困難さ"のようなものにも向けられているように思う。後日譚とは、幼少年期以降の続く人生であって、離れながらもしかしあくまでも幼少年の持つ特有の時間に取り組んでいる。

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20220907

マツイさん、parfait氏、福山さん

 香椎さんと酒を呑むためホナqハウスへ向かっていると、前方に完全に松井玲奈さんが歩いており、しかもその足取りは重く、もしかして泣いてる?といった感じである。

やべ〜〜〜〜松井玲奈じゃん!アゲだね。などと言っているうちにホナqハウスに近づくいたところで、松井玲奈さんが崩れ落ちるように座り込み泣き出してしまった。俺たちは慌てて駆け寄り介抱する。これから近所の友達の家で呑むんですがよかったら来ますか?話聞きますよ、と言ってみるが松井玲奈さんが泣きながら大丈夫でずと言うので、心配ながらも別れた。我々はホナqハウスに到着し、ホナqに「いやー今さっきそこでさぁ」と言うとドアがドンドンと強めにノックされ、「やっぱり話ぎいでぐだざーーい」と泣き声が聞こえる。松井玲奈さんがやってきた。更にいつからいたのかどのように参加してきたかが思い出せないのだが、私が「会ってみたいな」と常々思っていたでお馴染みのparfait(今考えたあだ名・女性)が加わっていた。parfait氏も松井玲奈さんもかわいいので「まじすげー俺得じゃん。アゲだね」などと俺は思った。酒は進み、松井玲奈さんは涙の理由を語る前に楽しそうに布団で勝手に眠ってしまい、parfait氏は突然飛び出して路上でゲロを吐いたり、突然スカートとパンツを下ろして「私はペニバンをしているから大丈夫なんだ」と笑い出したり(本当にペニバンをしていた)と、独特な酔い方をしていた。

 夜が更けて朝になり、松井玲奈さんを起こし「もうお開きですよ」と言うと彼女はノロノロと起きた。私はその顔を見て、「てゆーか半田さんってまじで松井玲奈さんに似ていたんだな」などと半田さんの顔を思いだすが、これを書いている今思えばむしろそのときの松井玲奈が完全に半田さんの顔にそっくりになっていて、実際の松井玲奈さんと半田さんというのは類似点のない全く別系統の完全なる他人とは言わないまでも別に特別ソックリでもないのだが、しかし私はその半田さんみたいな顔の松井玲奈さんを「松井玲奈さん」と見做していた。そこで私は寝ぼけ眼の松井玲奈さんに「この写真見てくださいよ、この子松井玲奈さんに似てませんか?」と半田さんがバイクに乗っている写真を見せる(そんな写真は実際にはないし半田さんはバイクに乗らないのだが)。松井玲奈さんは寝ぼけ眼のまま写真を見て、特になんの感想もなく俺に写真をよこしたが、その時あげた顔はほとんど完全に半田さんであった。

帰り道、「松井さんも西荻に住んでるんですか?」と尋ねると「そうだよ〜」と彼女は答えた。じゃあまた呑めるなと俺は思った。

駐車場?にさしかかると松井玲奈さんは紫色みたいな濃さのピンク色をしたバイクを持ってきた。2ケツしようと言う。芸能人なのに見つかったらどうするんだろうと俺は思うが、人生初めての2ケツを体験する。松井玲奈さんの細い腰に腕を回しながら、俺は時速60キロのスリルと共に、恋の予感を感じていた。

 家に帰ると(なぜか実家だった)、福山雅治さんとイトコ姉弟がいて、しかしもう帰るところだと言う。あなたも送って行けと親に言われ、なぜ?と思いながら、表に停めてある車に乗る。運転席にイトコ姉が座っている。福山さんが運転しないんだとややウケてしまう。発車した車の後部座席で、さっきまで松井玲奈さんと2ケツした景色がさっきと同じくらいのスピードで窓の外を流れていくのを見る。バイクではあんなに風を感じたが、車では何も感じない。そんな安全性と虚無を感じてふとよぎる。これ夢か?夢じゃないよね?夢か今日は本当に楽しかった。マジで現実であってくれ。parfait氏とも松井玲奈さんともせっかく出逢えたんだから。夢じゃないよね?昨日何してたっけ。やべ、穂波と呑んだな。今日のこれ夢か?いや!いや!

20220902

ダンプスターガール

 ダンプスターガールを聴いて、うわっいいなっていう気持ちになる。
 深く感じ入ってから一拍遅れて不思議に思う。
 やっぱり洋楽つまりは外国語歌詞って全然何言ってるか全然わからない。それにダンプスターガールなんて1分もかからず閃光のようにふっと光って気づくと終わっている。あっ、いいなと思った瞬間に、味わってる途中で、終わる。
 インストとは違って歌詞つまり言葉/言語が"味わい"に一定比重を占める曲に、その歌詞つまり言葉/言語が全然わからないのに「あっ、いいな」と思うのは、普遍的でありながら改めてどうしてなんだろう。
 旋律なのか?それもある。リズムなのか?それもある。語感なのか?それもある。他言語を解さない解せないとき、もしかすると私たちはその状態のときだけ、音楽を音楽として耳にしているのかもしれない。ドントシンクフィール状態に在れるのかもしれない。こうした経験を以って、「わからないこと=悪い」「わかること=良い」のではないという言説を提出する。