20241126

耳鳴りすませばとっても静か

 大きな賞をもらった夜明けに生まれて初めて「あれ、もう自分は映画無理かもしんない、ここが限界かもしんない」という感覚がなぜかはわからないけれどとにかく襲いかかって来て、だけどまぁ、びっくりしちゃったのかな、こういう陰鬱はそのうち回復するだろうと放っておいた。私は養老孟司を仰ぎ倣い、風邪をひいても病院には行かない派。諸々残務処理だけは済ませて、それを終えたら最悪死んじゃえばいいじゃないですかァみたいなことをもう一人の自分にあくまで軽いノリで励ましてもらい、なんとか乗り越える。燃え尽き症候群ってやつだろう。そんなベタな。

 本当に限界が来た時に話を聞いて欲しい人は何人もいない。一人いればいい。本当にやばくなったら貴方に吐露して、それでもダメなら本当に高い高いビルにでも登って、下界の風景を見、そこから身投げをする覚悟があるのかを自分に尋ねてみればいい。即死は短絡と私は思う。ひとつずつ確かめればいい。自分が嫌いなわけでもないから。一旦たくさん寝たまえと、他人だったらそう声をかける。

 少しずつ陰鬱は薄らいでいった。そういうものだ。一生風邪をひかない人がいないように。また訪れる。季節の変わり目に。あの日が私の人生のうち一つの季節の変わり目であったこともまた間違いない。薄らいでも消えはしない。なくなりはしない。



 ずっとずっと心の安否を心配しながら連絡できずにいた友人Aから、私の映画の受賞をお祝いする趣の連絡が来た。おめでとうございますという言葉より連絡が来たこと自体が嬉しかった。本当にずっと気にしていたから。

「喪失に発する立ち直れない悲しみの日々の中で、かつてシビヤさんのブログに自分のことが書いてあったことを思い出した、ある日それがすごく励みになった、重荷に感じないで欲しいけれど自分の中でシビヤさんの存在というのは〇〇監督と同じ位置にある、だからシビヤさんが、この世を去った〇〇に代わり(というのではないのであろうがしかし現在生きていて)映画を作り続けていることが励みになっている 自分もまた、作ることや考えることをやめず、続けることにする」 そのようなことが書いてあった。最後の一文が嬉しくて、別に意味ないけど最近聴いてた「Q」という歌のURLを貼って送った。気にいるかどうかなんて知らないが。とにかくいなくなったわけじゃなかった。



 何年も会っていなかった友人Bに久しぶりに会った。お茶でもしようかという話になって、お茶した。追い出されるまでタリーズに居て、サイゼリヤでワインを二杯ずつ飲んだ。次に自分が作ろうと準備している映画と、次の次の次に作ろうと思っている映画の話なんかをした。最後に会ったのがいつだったか私もBも全く思い出せなかったが、その期間の単位は月でなく年だろう。最後に会ってからどのくらい経ったのかを検証する意味はないと私は思っている。貴方もそうだろう。いなくなったわけじゃないのだから。



 一人で長い道のりを歩き歩き、とある場所に行った日がある。その日の翌日から舌下左部に違和感と痛みを覚えるようになった。口内炎だろうと放っておいたが鏡の前で口を開けてあらためたところ少し様子の違う赤貝みたいなものが見えた。左の喉にもしこりのような膨らみがある。普段はさほどでもないが何か食べると激しく炎症がまるで身を起こすかのように膨らみ激しく痛むので、今日病院に行ってみた。投薬で様子見。精密検査は経過次第。

そんなわけないとは信じてるけど舌癌とかだったら嫌だな。泣いちゃうな。と思う。大切な何人かの顔が浮かぶ。それでも私は突然いなくなったりしない。

大丈夫ですよ。

20241016

夢のなかで無責任がはじまる

 気持ちのいい秋空のもと、眼下に東京の冴えない街並みを臨むビル屋上の手すりへ組んだ肘を乗せ私は「マジジョテッペンブルース」を聴いていた。マジジョテッペンブルースをここまでの空への近さで聴いているのは東京広しといえど2024年秋において私しかいないだろうと自分で考えていた。別にマジジョテッペンブルースが特別好きな曲でもないし思い出すことも普段はない。
 たくさんの屋根が見える。そのうちのひとつのアパートの二階の窓が開いていて、室内の風景がみとめられた。そこでひとりの男が自慰をしている姿があった。私は親しみをこめた眼差しを向けるが、彼は気づかない。それでいい。そういうものだから。彼は目をぎゅっと瞑っている。その必死さというのはどこか、祈りのようでもある。
 目を他にやると別の家もおなじく窓が空いていて、おなじく室内が見え、別の男がおなじく目をぎゅっと瞑って自涜をしていた。その部屋の隣の窓からも、別の男が同じことを同じようにしているのが見えた。
 私がそこで気づくのは、屋上から臨む街並みの数えきれない軒下の窓のうちの多くが開いていて、そこで男たちがみな同じことを同じようにしているということ。このさわやかな青空の下で、屋根の庇護に守られながら、この時間帯、みんなそうなのか。みんなそうだったのか。
 なんだか屋上で神様よろしく彼らを眺めている自分の方が間違っているような気になってきた。
「ルー」と声がするので振り返ると彫りの深い顔をした西洋人の紳士が立っていて私にルー、ルー、と呼びかけているが言わずもがな私はルーではないですよ。

「ルー、僕は誓うよ──誰かにできるんだったら、僕にだってできるんだ」と紳士は私の目を見て言った。その文言にはなじみがあって、そうだ、それは、デルモア・シュワルツがルー・リードに言った言葉だか宛てた手紙だかに書いてあった、ルー・リードがシュワルツを回顧するときに印象に残っていた言葉だ。ルーと呼びかけながら、シュワルツがおそらくはみずからの鼓舞のため、もしくは何かしらの"確認"のために自己へ向けた指針をルー・リードへの言葉の形式で言ったんだ。
 じゃあ目の前の西洋人はシュワルツなのか。というか私のことを教え子のルー・リードと思っているのか?

私はルー・リードの曲でもヴェルヴェッツの曲でもなく、なんというかよりによってマジジョテッペンブルースを聴いていたことがなんだか無意味に恥ずかしくなってしまう。場違いな気持ちになってしまう。

「秋元康に書けたなら、私だってマジすか学園くらい書けるはずだろ」と紳士は言った。マジジョテッペンブルース聴いてるので合ってたのかよと私は思うが口には出さない。

『夢のなかで責任がはじまる』の帯に書かれていた、シュワルツへのルー・リードの言葉が思い出された。

〈あんたは世界最高の短編を書いたんだよ。夢のなかで。〉

私はルー・リードではないのだけど、目の前にいるデルモア・シュワルツ(仮)に、ルー・リードの言葉に続けるようにして
「だからマジすか学園書かなくていいんですよ」と言った。美しい賛辞が台無しになってしまったが、私はルー・リードではない。

 地上の街のあちこちから「ウッ!!」という低い声が一斉に聞こえた。そちらを振り返るまでもないが、ふと気づくと紳士の姿は消えていた。
この空の下でたくさんの別々の男たちが、しかし同時に昇天したのだ。ワロタ。

20240916

半分夢日記

 夢にもう永いこと会ってない友人が出てきた。

私は喫茶店アルバイトの面接に行く。

その喫茶店でくだんの友人が働いているから、

斡旋してもらったというわけだ。

喫茶店なのに小説を書くという課題が事前にあった。履歴書に書いた私の小説を、喫茶店の店主であるおばあさんがもの凄く手厳しく批評する。

「この〈大人数〉と〈いく人か〉という表現は重複しているが、こんなことも分からないようではどうしようもないよ」と言われたのを憶えている。

私は喫茶店の面接でなぜ……と思いつつ、項垂れていた。

客のいない店内にしつらえられた格子窓の外を見やると、プテラノドンがつがいで飛んでいるのが小さく見える。あまりにも遠く、ゆえに一瞥もくれない。


 こわい夢ではなかったけど、目覚めてものすごく悲しかった。あまりに悲しくて、目が覚めてなお心細かった。そういえば夏の間に一度こわい夢も見た。その時も心細かった。こわい夢や悲しい夢は、目覚めてからの方がむしろ心細くなる。

 〈こわい夢を見たら〉という話題をアテにして酒を呑んだ日を思い出す。あの日、酔っていたけど友人たちが、同じようなことを考えていたことに心丈夫になった。

そんな日もあったよ。


 つとめ先の屋上で、夢に出てきた友人がつくった映画を見せてくれた日のことを思い出して、映画自体は見返さなかったけど私が送った感想文を自分で読んだ。私がものすごく打ちのめされ感動し、スウィートな敗北感を感じたということがだらだらと書いてあった。また映画見せてください。と私は結んでいた。

 かの友人は、いまとある事情から、映画を作るどころではないらしい。n月になったらお茶しようという約束が等速に私たちから遠ざかっていく。日毎に。

 それでも私はいつかまた、「自分の無能さに絶望しましたよ今回もォ」などと言いながら映画をおずおずと見せてくれる日を、ガチめに毎日かんがえている。

 現代日本映画作家で、私が心からファンです!と新作を待つのは、立脇実季と安達勇貴。たった二人だけ。

20240331

文化荘文化大賞2023

 本年度文化荘文化大賞が以下の通り決定いたしました。


◯大賞

 ダメージヶ原ゆみ(from「時に想像しあった人たち」)

 滝沢朋恵「AMBIGRAM」


◯大賞最終候補

 パトリシア・ハイスミス「ヒロイン」

 ダメージヶ原ゆみ(from「時に想像しあった人たち」)

 鈴木亜佐美(from『仕舞』)

 平山水絵(from「光ってみえるもの、あれは」)

 滝沢朋恵『AMBIGRAM』

 木村美月の企画「午後の死」

 排気口「光だと気づいた順に触れる指たち」


◯選考ノミネート作品

 大江健三郎「読む人間」

 アニー・エルノー「シンプルな情熱」

 J.M.クッツェー「恥辱」

 トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の彗星」

 太宰治「十二月八日」

 池澤夏樹「スティル・ライフ」

 広瀬正「マイナス・ゼロ」

 カーソン・マッカラーズ「渡り者」

 パトリシア・ハイスミス「ヒロイン」

 乗代雄介「それは誠」

 クジラックス「歌い手のバラッド」

 エンリコ・フェルミ「Notes on Thermodynamics and Statistics」

 木村美月の企画「午後の死」

 排気口「光だと気づいた順に触れる指たち」

 モルグモルマルモ「Life on Earth?」

 住所不定無職「キスキス」

 滝沢朋恵『AMBIGRAM』

 detroit7「サンデーボウイ」

 平福百穂「猟」

 檜山沙耶熱愛報道時のインターネットにおける反応

 JR東日本 えんがわ押し寿司

 えんツコ堂製パン 西荻ハリー

 しみずや クッキー

 鈴木亜佐美(『仕舞』)

 平山水絵(「光ってみえるもの、あれは」)

 ダメージヶ原ゆみ(「時に想像しあった人たち」)

 ミクロフードマン カウデル

 Standberg Biden RAS 6 BanG Dream! RAISE SUILEN 朝日六花モデル

 オドレイ・トトゥのとても個人的なセルフ・ポートレート

 PUMA カバーオール LOVEジャン

 タカノフーズ おかめ納豆 山わさび納豆

 籐椅子

 M-1グランプリ2023

 Marshall MonitorⅡ A.N.C

 村井優の「怒」

 UNIQLO×MARNI コラボアイテム各種




選考者:ワンダフルデイズモーニング、静谷静一、志水あみ、あさくらなおき

選考日:2024年3月31日

選考会場:ドトール西荻窪南口店



○選考者コメント:ワンダフルデイズモーニング

 私の今年度の文化大賞の選考テーマは、かなり元も子もないが“魅力的”言い換えれば“理由を言葉にできない衝動”の力を最も持つ候補を推す、ということだった。つまり、私に限ったことで言えば、「これこれこういうところが素晴らしい」と説明のできなさの強い候補が大賞になるべきと考えたのである。斯様な前提のもと、私個人は「ダメージヶ原ゆみ」と「午後の死」の二つの候補を推すつもりでいた。「ダメージヶ原ゆみ」は、大別すれば同じ選出基準で最終候補に残った「鈴木亜佐美」「平山水絵」と票の分かれるところになるのではないかと予想したが、むしろ票の分かれというよりは三候補の魅力は甲乙のつけられない同率ではないかということになった。三候補同時大賞との向きもあったが、私は三候補の中で、自分が事前に携えた“理由を言葉にできない衝動”の最も大きな「ダメージヶ原ゆみ」を強く推した。「鈴木亜佐美」「平山水絵」の欠点を挙げて「ダメージヶ原ゆみ」の優位を語ることはしたくない。三候補が文字通り三つ巴の均衡を表したことへの不敬に感じるからである。三候補そのものの魅力を並べるのではなく、三候補それぞれをそれぞれのタイミングで一番最初に鑑賞したとき、そしてその後の自分自身の反応の客観的観察を私は根拠に据えることにした。鑑みたところ、「ダメージヶ原ゆみ」のみが、四枚のファンアート(厳密には未発表を含む六枚)を描かせていたのであった。そして最も“負けた”という爽やかな敗北感と捻れた思慕を呼び起こしたのだ。ファンアートの制作とその数が客観的な結果である。ひとつの“すてきなもの”が他者に波及し、何かしらの具体的な行動を起こさせる。この波紋は文化的な事物・事象の魅力の大きさをはかる物差しとして適当であると私は思う。また「午後の死」もこれに関連する。鑑賞時に最も私を混乱に陥れ、且つその混乱へネガティブな印象を抱かせなかったのは全候補の中では「午後の死」だけである。「ダメージヶ原ゆみ」と同じ敗北感および思慕を私は覚えた。好みの分かれることがあっても、私個人は「午後の死」は「ダメージヶ原ゆみ」と同量の魅力を訴えたい。当文化大賞が合議によって選考されるという原則ゆえに私個人の独断が私個人の想いのみで押し通ることはできなかったが、しかしながら私の中では、大賞である「ダメージヶ原ゆみ」に比肩し拮抗したのは「鈴木亜佐美」「平山水絵」よりもむしろ「午後の死」だったことを残しておく。ちなみに、同時大賞の「AMBIGRAM」に私はいささかの異論もない。しかし「ダメージヶ原ゆみ」「午後の死」を携えていた私は「AMBIGRAM」を語るに言葉が足らないように感じるので個人のコメントとしては割愛する。それでも、確かに、「AMBIGRAM」には言いようのない魅力があった。まさに“理由を言葉にできない魅力”である。私の大賞選考基準に矛盾しない。



○選考者コメント:志水あみ

 今回の選考では、最終候補が過去最多となった。最終候補である七つは大きく三つのグループに分けられるのではないかと私は思った。A〈キャラクターの魅力〉を打ち出す「ヒロイン」/ダメージヶ原ゆみ/鈴木亜佐美/平山水絵。B〈総体的な作品の魅力〉を持つ「午後の死」/「光だと気づいた順に触れる指たち」。そしてCそのどちらでもない理由で選出された『AMBIGRAM』である。A群とB群が対照的であるというのを私は面白く感じる。A群の三つはどれも作品の要素にすぎず、作品それ自体を対象としていない(「ヒロイン」はキャラクターではなく作品そのものではないかと思われるかもしれないが、「ヒロイン」という作品の魅力は主人公・ルシールの魅力がそのおおよそ全部であると私は思う)。「ヒロイン」はイコールでルシールのことでもあり、それゆえに選考対象をあえてルシールに限定することは意味をなさない。しかし、「ヒロイン」が大賞まで推しきられなかったのも同様の理由からになる。あくまで「ヒロイン」という作品全体が対象でありながらルシールというキャラクターがその“良さ”のほとんどを担っていることで、「ヒロイン」自体を大賞に推すには至らないと選考では結論した。A群の話をもう少しすると、選考会の流れはこのAグループから大賞を選ぶべきではないかという趣が強くなったのだが、ダメージヶ原ゆみ/鈴木亜佐美/平山水絵の三候補は私の中ではほとんど拮抗しており、文字通り甲乙つけ難いため、弁証法的な帰結もありうべきだろうと、元々推すつもりで臨んだ「AMBIGRAM」を推した。「AMBIGRAM」もまた、十二に分かれた個々がその個々間では甲乙つけ難いゆえに総体としての「AMBIGRAM」として選出されているのであるから、A群ないしB群候補には内在した“付け入る隙“を持たぬ唯一の候補だと思ったのである。しかし、選考会の大きな潮流を捻じ曲げるまでには至らなかった。選考会は各自が今年度のテーマを持ち寄るので、それらの衝突や溶解が一つの流れを生むのは自然でもある。「AMBIGRAM」が弁証法的帰結を単独で達成できなかったのは、私の推薦の弁の根拠が、A群B群との相対的な評価に拠ったということも関係しているだろう。今回の結果を私はそのように捉えている。

 


○選考者コメント:静谷静一

 私は「光だと気づいた順に触れる指たち」を推そうと考えていた。ダメージヶ原ゆみ/鈴木亜佐美/平山水絵の三候補は、その均衡ゆえにそのどれかひとつを大賞に、という風には考えなかった。だから、その三候補が横並びで大賞になるか、もしくはそのほかの候補が大賞を獲るかという結果になる予感があった。そういう思いもありながらにして個人的な感動を大きな理由によせた上、何かひとつを推すのであれば「光だと気づいた順に触れる指たち」と思ったのである。「光だと気づいた順に触れる指たち」に内包された全方向的な肯定(それは絶望や諦念までも含まれている)を描く覚悟の強靭さに私は心打たれた。そしてこの感動の大きさは大賞に推すに相応しかった。ひとつ申し上げておくのは、結果的に「光だと気づいた順に触れる指たち」が大賞に至らなかったという結果には、2019年に「ミラキュラスウィークエンド」が大賞を獲っていることは関係しない。これは私だけの意見ではない。また同様に、「ダメージヶ原ゆみ」と「光だと気づいた順に触れる指たち」を同一作者というファクターで比較検討をすることもなかった。それでも「ダメージヶ原ゆみ」を含む先に挙げた三候補に議論が集中したのは、今年度の文化大賞が三候補に通底していた魅力を今回のテーマとして内在していたことに思うし、テーマ性が後から浮かび上がることは私が毎年文化大賞に期待する特性なのだ。私が事前に考えていた“横並び“という結果にはならなかったのだが、むしろ私は自分の予想通りにならなかったことを好ましく感じる。三候補への議論と別のところから「AMBIGRAM」が浮かび上がったのも、やはり興味深い。一ヶ月以上の長期にわたり、ほとんど「AMBIGRAM」だけを聴いていた日々を思い出すとき、その行為の徹底に明瞭な意図や理由は見つからないが、それこそが「AMBIGRAM」が大賞である根拠たる。



○選考者コメント:あさくらなおき

 候補から最終候補を絞るまでも長かったのにそのうちのキャラクター三候補でどれがいいみたいな時間が長くて結局どれもいいみたいになったので、どれもいいなら全部にするかランダムにくじ引きでもいいんじゃないかと思ったけど、そういうことではないっぽかった。

20240108

風邪/花の名前/光景

 クリスマスの朝、起きるとプレゼントの代わりのように体調を崩していて、その日からずっと回復しないままの年越しになってしまった。今はもうずいぶん持ち直してきて、ほぼ全快くらいにはなったけど、こんなに体調の悪い年末年始もはじめてだったからまぁまぁどんより、それでも撮影で遠い山に行ったりした。死ぬかもしれんと思ったが死ななかった。


 年が明けてすぐ、あぶないと言われていた祖母の訃報が届いて、二日間実家に戻る。一緒に長い間暮らしていた母方の祖母と違って、もう十年以上会ってなかった父方の祖母だったから、久しぶりに会うのがこんなかたちになってしまって孝行孫じゃないなという自分のことを考える。でもここには言葉にしづらいニュアンスがあって、機微を無理矢理言葉にすることが良いことだとはどうしても思えないし、しない。久しぶりに兄弟が揃い、また、これも十年以上会ってなかった父方の従姉妹たちとも会う。父方にせよ母方にせよ私たちイトコはみな歳が近いけれど、我が家の兄弟と違って他の親類は皆女系なので照れくさいというのも、一族単位であるのかもしれない。わからない。これも解明はしない。


 実家に向かう電車の中で車内CMを眺めていたら「今の時代、お金をうまく稼ぐには?」みたいなクエスチョンに、有識者っぽいおじさんが「自分の時間以外に他人の時間を取り込むのがポイント」と答え、その例のひとつとして「読書は著者の膨大な時間を数時間でゲットできる」と言っていてこんな下品なやついるんだと思った。

 「読書が著者の膨大な時間を数時間でゲットできる」ことが間違っていると言いたいのではない。まぁなんというかそういう効率のために書かれた本というのもあるだろうし効率のための読書というのもあるのだろうから。

 そうではなくて、読書を「著者の膨大な時間を数時間でゲットできる」とわざわざ発言する/見做せてしまうことへの、その矜持のなさあるいは品性のなさにうんざりしてしまう。

読書を「読書が著者の膨大な時間を数時間でゲットできる」と見做せる感性が金持ちに必要な無頓着さなのであれば金持ちになんかなりたくない。たとえビジネス書であれ啓蒙書であれ、私は読書は読書をする時間の中にしかないと思う。CMだからあの発言も台本なのだろうが誰が書いたのだろうか。


 家族葬だったから親戚だけが集まった。従姉妹のSちゃんが撮ったおばあちゃんの写真はどれも私が会わなくなってから時の経ったおばあちゃんのはずだったけど、私がチビのころに家に行くとお菓子を無限にくれたおばあちゃんと同じ顔をしていた。


 おばあちゃんが十六歳のときから八〇年以上かかさず書いていたという日記を読んでいたらSちゃんが話しかけてくれた。

「私たちイトコは、みんな木の名前がつけられていますね。それにみんな画数が十画の木ですね。だからなんだという話ですが……」


 棺に花や手紙を入れる際、Sちゃんが家に生えていた木の花をたくさん摘んできて、それもみんなで分けて入れた。Sちゃんは花の名前をどれもちゃんと知っていて、私はそのことにすごく心が揺らされる思いがあった。

木や草や花の名前を知っているというのは、たとえば効率良い金儲けの仕方を心得ていることや、今とこれからの世界情勢の動きを把握していることよりずっと大切なことに思った




 棺の窓から覗くおばあちゃんに父がなにごとかを話しかけ、頬を撫でていた。私の父は感情を表に出すタイプではなくて、いつも冷静で、しっかりしていて、動じない。両親である祖母や祖父や兄と話す時も子供に戻らず大人同士の態度で接していて、側でお菓子を食べながらチビの私は「お父さんは大人すぎるように見えるがこれが大人という姿勢なのか」と思ったしあの頃の父と同じくらいの年齢になった自分を顧みてもそれは改めて強まる。通夜と告別式の二日間で父の涙を見ることはなかったが、それでもじっと自分の母親を見つめ、頬に触って何事か話しかける父のポツンとした姿は私に安堵と動揺をもたらしていた。


 通夜から帰ってきた夜、父が「桃鉄やろう」と私と弟に話しかけ、それはとても珍しいことで、私も弟も父からゲームを誘われることなんてないから、嬉しくなって、桃鉄をやった。母も途中から参加した。私たち家族は、仲は悪くないしむしろ良い方だと思うけれど、安定して平穏になったのは本当にここ数年のことで、八人で暮らしていた頃はいつも誰かと誰かが喧嘩していたり、ピリピリした空気がずっとあった。だいたいの原因は私なのだが。だから早く家を出たくて、母方の祖母が亡くなった時に「もうこの家に未練はない」と家を出た。八人いた家族はいま三人になって、ひとり暮らしの家を探しているという三男坊が出ていく近い未来に二人になる。今月末には私の弟に子供が産まれる。それでも、嫡男でない弟家族がこの家で暮らすことはない。

何人もいなくなってから偶然みたいに数を増やしたこの夜は、私が遅い独り暮らしの決意に際し、家庭というものへ見限って捨ててきた光景なんだと思った。