"立脇実季の映画は立脇実季の監督した映画でしか味わえない。
全選手が踏み入れ足跡だらけになっている場に立脇実季だけが一歩も踏み入れていない。
立脇実季だけが新雪の野を持っている。"
「takatobi」で立脇実季はついに全編雪吹きすさぶ真っ白な世界に"物理的に"突入した。私の「鯨波」の感想文と今回のロケーションに立脇実季自身の中における結びつきはない(だろう)ので、これは私がかつて未来を予見していたことの証明といえる。もしくは……自分でも知らずのうちだが、私は未来からやってきたようだ。
さて「takatobi」、ファーストカットはめちゃくちゃ技巧的に上手い。雪景色を横断する人影が中央から下手に歩いていくのを観客はまず目で追うのだが、そののち下手から上手へ向かうバスに気づくのに一瞬遅れて、バスと同じ進行方向に歩くさっきとは別の人物をカメラが追い始める時にようやく「こっちがキャラクターかよ」と気づくのである。最初に目で追った人物もバスもおそらく「たまたまそこを歩き走ってたから映っちゃったにすぎないんですけどね」と監督本人は笑うかもしれないが、だとすればこの見事な視線誘導は作者の恣意ではなく神様──というか、"この映画そのもの"によって設られたということになる。これは数カットのちのやばい動きの犬たちにも共通。あの犬は、撮っててテンションあがるだろうなというのがカットの尺で分かる。あれは切りたくないよなぁ。
人影・バス・犬たちにせよ、それらは"実写映画"という、物理現象を無差別にキャメラで撮影することしかできない形態だけが許された豊かな自生性のあらわれだ。自生性の芽生えたカットがひとつでもあれば映画なんてものは私からすれば傑作認定なので、1カットめからオオーッ&クソーッという気分になる。クソーッは嘘。
北の街を少女が歩いている。というより彷徨っている。というショットが続く。動線がうまく配列されているわけではなく、カットが変われば少女は右左奥手前とあらゆる方向へ歩いていく。だから私は"彷徨っている"と書いた。彷徨うとはそういうことだ。
彼女がばらばらの方向へ彷徨い歩きながらに一連のシーケンスに共通しているのは、降雪激しい雪景色の中にいるということ。
──ここまで書いて手を止めるけど、私は映画の感想文を書こうと思って書き始めて、今まさに文章を書いていたのだが、な〜〜〜んか自分でここまでを読み返すと映画のショット解説みたいになってきてるというか、このままだと全シーン全カットの羅列とその分析をするに終始してしまうのではないかという予感に襲われた。私は難解な映画を解きほぐしたいのではなくて(というかこの映画は難解ではない)、映画を観て自分がどのように感じたかをこそ残しておきたいのだ。あぶない。評論家じゃないんだからおれはさ。居住いを直して続く。
閑話休題。
この映画は、"あるひとつの出来事を思い出す"という時間、その一瞬だけのためにある。
主人公である少女が"あるひとつの出来事"を自ら望んで思い出そうとしているのか、それともふいに思い出したのかは分からない。しかしながらいずれにせよ彼女の中で"あるひとつの出来事"を思い出せないことが居心地の悪さにつながっていると思う。しっくりこない、もやもやする、判然としない、でもいい。表現はなんでもいい。誰しもあるだろうこの感覚。
少女は8ミリフィルムカメラを持っているが、フィルムカメラというのはデジタルカメラよりも歴然と、物質として、"物理現象を撮影する"ための機械だ。もしもいつか自分が忘れても、目に映るものを撮影さえしておけば風景は物質として遺る。少女が8ミリを持って北の地にやってきた真意はわからないが、思い出せなかった"あるひとつの出来事"を思い出す という「takatobi」の肝となる感覚に対して、フィルムという物質は比喩的にも有用性が高いモチーフになる。
では雪はどうか?雪は景色のノイズになる。フィルムの例のようにしてもっと"映画"というものに寄せて書けば、古い映画や劣化フィルムに散乱するフィルムノイズは画面に降る雪のようと思うことがある。それを踏まえ、この映画における鮮明たるはずのデジタル画面を覆う雪景色は劣化フィルムと双対にある。後景は雪雲に覆われて判然としない。ノイズの雪で前景も見づらい。この判然としなさ、そしてその中を彷徨い歩く少女は、私が勝手に看做したこの映画に流れる時間つまり「しっくりこない、もやもやする、判然としない、でもいい。表現はなんでもいい。誰しもあるだろうこの感覚」の比喩になってるではありませんか。驚くべきことにさ。
外部記憶媒体であるフィルムが、それでも旧くなることで劣化してしまう時に降る雪がフィルムノイズだ。この映画自体が旧くなった劣化フィルムの比喩なのかもしれない。だとすればこの映画は今よりずっと未来から届いている。現在が経年劣化するほどに遠い先の未来へと高くジャンプして作られた映画。
私の言っていることは勝手な誇大妄想ではない。こういうことを監督自身に言ってみても、「そこまで考えてなかったです」と言われるのが相場で、つまりは映画の自生性というやつで、だから私は監督の恣意を読み取るのではなくて、あくまでちゃんとすべて映画そのものに準拠しているつもりだ。
踏まえて繰り返すが、これは遠い先の未来へと高くジャンプして作られた映画。だからタイトルは「takatobi」という。
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