スツールの籐椅子が欲しい。
20250809
籐椅子
20250710
向日葵の花
20250512
自分を復習する
「すごいね」って言われるのも「良い人」って言われるのも苦手で、それは本当に別に良い人でもなければすごくもないということを二四時間×365日×うんじゅう年、自分という身体の中からつきっきりで見ている俺だけは毎秒目の当たりにしているから。
1.
自分はおそらく凄い人間なのではないかということを、振り返れば二十歳くらいまでは思っていたようにも懐かしむけれどもう忘れてしまった。
それは自分に絶望したとか周りの凄い人たちとくらべて卑小さを思い知らされたということではなくて、自分の、たとえば〈才能〉とか〈運〉みたいな言葉であらわされるポテンシャルの部分に興味がなくなったということです。念を押すけどケほどもネガティブじゃないし厭世的でもない。
もとめずに目にし耳にした先人たちの言葉の累積が俺のスタンスの土台や支柱にあるから、これは思い込みでもゆらぐオリジナルな思想でもなくて、ゆえに力強い。
累積の中にはたとえばこんなのがある。
鈴木敏夫の「何かを作るにあたっては、自分を信用しない」という言葉。
黒沢清の「内面の葛藤はカメラで撮影できない」という言葉。
菊地穂波の「作家の才能あるなしは内容を問わず書き上げられるかどうかのみではかる」という言葉。
いまパッと思い出せない言葉は割愛するけどそれらも累積から除かれるわけではない。
〈天才〉という便利な言葉は本当便利に使われているが、天才という言葉の使われ方というのはむしろ〈天才じゃない〉という自らの可能性への諦めの際に多くある。
昔なにかの脚本にこんな台詞を書いた。
「諦めるっていうのは、こんなに簡単なことなんだ。知らなかったね」
この台詞を何に書いたかのかは忘れたし当時からそのようなことを考えて書いていたのかもおぼえてないけれど、自分がかつて無軌道に書きつけた言葉にむしろ現在の自分が影響されるようにして、最近とみによく考える。
神聖かまってちゃんを久しぶりに聴いてて、偶然にもこんな歌詞にも出くわした。
「諦めてもいいんだよ」
何かを諦めることほど簡単なこともない。即時やめればいいんだから。もうやらなけらばいいんだから。そして伴痛はともあれ肩の荷は降りる。
誰しもテイのいい言い訳を見つけるのは得意なのだから、「諦めてもいいんだよ」なんて言葉、他人に言われるまでもない。
たとえば何か目指すものがあったけど環境のせいで継続が難しくなって諦める。
とか、
たとえば好きな人がいたけどフラれてしまったから恋を諦める。
とかあって、それを「仕方ないよね」とみなすのはとても簡単だし自然に見える。俺も諦める人がいたとして、一応そのような言葉をかけるだろう。
だけど俺が、前提として自分事に限定した上で定義づける〈諦める〉という行動があらわすのは、シンプルにその事柄・対象が自分にとって大切じゃなかったという事実の証明。注釈するけど良い悪いではない。
たしか伊集院光が談志の『雛鍔』を聞いて衝撃を受け噺家を辞めたという話を聞いた当の談志が「本当は格好のつく辞める理由探してただけだろ」と言ったみたいなエピソードがあったけど、なかなか手厳しいことを言うなぁと思いつつも、この言葉の本質には、諦めることの容易さもさることながら、人生を賭してなにかに向き合うに伴う難渋を〈努力する天才〉と称された談志が、むしろ"努力する"の部分を太字にするようにして感じ続けていることのあらわれがあるように思える。
自分の人生うちに健やかさや穏やかさを重要とするなら、なんだって嫌になったら辞めてしまえば、諦めてしまえばいいのだ。皮肉ではない。自分が大切に思っていた対象がそうでもないと分かることは、消極的に大切なものが解ることだとも思うから。
俺自身の話をすれば、小さい頃は漫画家になりたかった。四歳からずっと絵を描くのが好きだったから。小学生のうちは小説家になりたいとも思っていた。本を読むのが好きだったから。大学生のうちは演劇作家になるのもいいななんて思ったこともあった。そういう学科にいたから。そして別々の理由から、いずれもプロになることは諦めた。ただし俺が諦めたのは〈プロになること〉なので、絵を描いたり小説を書いたり戯曲を書いたりというのは、趣味みたいなものだけど、時々やる。そして〈時々"やる"〉そのことだけが大切に思うし、"やる"人たちのことは、対象がなんであれ全員同士のように感じている。
安部コウセイが「風とロック」に寄せたエッセイ『ロックとロック』の末尾にこんなことを書いていた。
「金や、テクニックや、知識は必要だ。それで飯食ってるんだから。でも僕は極端なところ衝動があればロックできる。衝動をなくしたロックなんて、ただのウンコじゃろがい!」
ガチでそうだなと思う。諦める理由はひとつだが、誰に頼まれてるわけでもないことをそれでも続ける理由もまたひとつだと思うから。
だから翻るが、俺に関して「すごいね」なんてことはない。〈えらい〉という括りで言えば具体的な社会貢献や他人のために自分を犠牲に奉仕する方こそが偉い。俺はそういうことは、本当に出来ない。
2.
「良い人」という言葉を賜るときの苦手意識の要因は、シンプルに全然良い人じゃないからで、そのことは去年くらいに、久しぶりに会ったかつてほのかに片想いしてた相手にこんなことを言われた時に確信を得た。
「シビヤくんはさ、良い人だとかやさしいとか言われることが多いと思うけどね、あなたが感じているそれらへの居心地の悪さの要因は、あなたが良い人とかやさしいとか他人に見做される行為や言葉や態度の源が〈気まぐれでやってる〉からだと思うよ」
「あなたを本当によく分かっているどうかは、あなたのことを〈気まぐれな人〉とか〈ドライな人〉とか〈冷め方の極端な人〉とか見做しているかどうかだと私は思うね。やさしくするのも、優しいからじゃなくて、ただ相手のことがその時好きだったりでやさしくしたいからしてるだけでしょう。好きじゃない人にやさしくできないタイプでしょう」
彼女のこれらの指摘や見解のすべてが実際のところ当たっているかどうかはわからないけれど、俺は本当に(特に自分という自体へ)意志があんまりなくて、だから「こうされたら嫌だな」とかも予想ができなくて、されたことを嫌と感じてはじめて「こういう嫌なんだ?」とみずからを発見するみたいなことがよくあるし、「あなたはこうなのよん」と他人に言われたことを「そうなんだ!?」と鵜呑みにするので、これら指摘や見解も一笑に伏したりはせず、心の抽斗にしまっている。時々とりだして、眺める。
ともあれおそらくは、とかく〈博愛〉と対極に位置するスタンスを持ってる。俺が大賞へ向ける興味や好意にはたぶん段階が五段くらいあって、原則固定されずその時々で流動する。固定される例外がひとつあるが、ここには書かない。
俺なんてのは、たとえば興味がない人への興味のなさたるや……なのだ。これは俺が興味のない(もしくは興味を失った)人へ向ける態度を目の当たりにしたことのある何人かから笑いながらの注意すら受けたことがある。そんなやつのどこが「やさしい」「良い人」なんだぇ!!
周りの誰を見ても、誰を思い浮かべても、「いいなぁ、羨ましいなぁ」って思う。あなたみたいに生きられたらってみんなに本気で思ってる。
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終わりに。こういう文章を書くのは自分のことを誰かにわかってもらいたいからとかではなくて、だから別に読まれても読まれなくてもよくて、これを書くこと自体が目的で、時々こういうふうに考えたことをまとめないと元々うすぼんやりしている自分の輪郭が本当に消えてしまうと思ってるからだ。なんとなく、いろんなことがどうでもよくなることや、さようならすべてのエヴァンゲリオンみたいな気持ちの時期って、誰しもあるでしょう!
20250427
練馬のアイツとオソロのロマン
欲しかったヘッドホンを買った。いつから気になっていたのだろうと心の古文書を紐解き褪せたページにもとめればどうやら2023年の年末あたりらしいので、歳余を超えて逡巡していたことになる。珍しいことではない。
ヘッドホンの相場なんてわからないが、カッコかわいい姿かたちの脳裏に浮かぶにあわせGoogle検索窓に名前を打ち込むその都度あらわれる身の丈に合わない数字の並びにピヨってた日々のなか、その身の丈に合わなさを諦める理由の筆頭に置いて忘れよう忘れようとつとめた。本末転倒のルーティンは永く続いた。それも終わりだ。
〈欲しい〉という欲求は片想いに似てるなんて安いこと言うべくもないけど、何かへ向かう気持ちや欲求はロマンチックである方が望ましい。
〈欲しい〉という気持ちや欲求のどのような点にさだめてその純度の質を測るべきかと考えてみると、どれだけ〈別に必要ではないか〉だと思っている。何かを欲求するにあたり〈必要〉という基準を設けると、それは欲求を正当化するために機能してしまう。〈必要なもの〉に私たちは想いを馳せないのだから、私はそれをロマンチックでないように感じる。
「あぁ、また要らないものを……」とか、
「あぁ、別に持っているのに……」とか、
金を払って手に入れる前にせよ手に入れた後にせよ〈別に必要でない〉ものが喚び起こしたストレスへ屈しこうべをガクンと垂れる私たちは、他人から見えぬ角度でこっそり口角をあげている。二律背反が胸うちに鍔迫り合いを演じる時、こすれる刀身から散る火花を私はロマンチックであるように感じる。
これから暑くなる。暑くなる時期に私はヘッドホンをなるべく使わない。なにせイヤホンあるし。せっかく手に入れたヘッドホンの活躍の場がすぐに用意されない。おでかけに伴うにおいてもヘッドホンってデケくて邪魔だし。イヤホンならポッケに入れておけるし。首にかけとくのも絞まる感じするし。イヤホンに何の不満もないし。
こうしていま並べられた私のすなおな心持ちのひとつひとつが、このたび私がいかにヘッドホンを手に入れてピカピカに嬉しいかのあかしなのです。
20250202
「思った……」という音
20250116
手習いの子供
二年前、題に惹かれて図書館で借りたとある連作短編小説集の単行本を読んでものすごく感動し、以来その作家にそれまでより惹かれるようになるのみならず、自分が何かを書く際〈語り方〉ないしは〈綴り方〉という点において、彼に近づこうとまでは畏れ多くとも、せめて自分を影響下という自覚へ照射されるに目指す灯台と見立てた。そういう、すくなくとも当面向かうべきナラティヴへの方向づけのきっかけになった小説集には単行本未収録の短編が二つあると友人のHさんが言う。さらに彼は、その単行本未収録作品のうちのひとつこそが自分には連作小説のなかでもっとも面白く感じられた、と続けた。調べたところ当の小説集は二つの出版社から文庫化されているものの、たやすく手に入る版の文庫は単行本の移植で、やはりふたつの作品は未収録であった。
それで私はふたつの単行本未収録作品をふくむ、いうなれば〈完全版〉の方の文庫を二年間探していたが、古本屋やオンライン書店、ヤフオクにメルカリを定期的にぞめき歩いても、自分の納得できる値段で並んでいることはなかった。とはいえ値段の問題についてのみ自分を鼓舞すればいつでも手に入ることがわかったので、焦ることも焦れることもなかったが。
最近になって久しぶりにインターネットでその文庫本探しをしていたらついに納得できる価格の〈完全版〉が売られているのを見つけたので、ひとつの旅の終わりを迎えるときのさみしさのような感慨も飴玉よろしく舌にねぶりながら、二年越しに〈完全版〉を手に入れた。
さっそくHさんが「最も」と言っていた作品を読んで、まあシンプルにめちゃくちゃおもすれーwというのが最初に思ったことだったけれど、読み終えてその作品の全体を俯瞰の位置から考えたとき、私は心にそれまで照らされんとしていた灯台と同義でありながらまた別種類の〈語りの仕方〉を発見した。
私が二年前に似而非を標榜した〈語り方〉というのはレトリックについてだった。それは私がてにをはだとかの組み合わせに興奮を覚えるたちであるからで、てにをはの組み合わせで一文というのは一体どこまで引き伸ばすことができて、また、それによってどのくらい読む人に読書の時間を遅延させることができるのかというのにもまた、興味があった。そしてそれは、複雑さと冗長さによって読者への読みやすさを非考慮しながらも〈美しさ〉の獲得を目指すという造形とか設計的な欲望と、もっと幼く無邪気な〈言葉と戯れる〉ことへのよろこびが並立していた。きもちよくて楽しいからやっているということだ。
このたびの「未収録作品」読書のあとで私が発見した〈語りの仕方〉はもっと、文字通り俯瞰的な、作品全体の構造の作り方についてだ。先の〈組み合わせ〉という表現に沿って対応させるなら〈順列〉の仕方といえる。当該作品がみずからを小説であると名乗っている以上、〈小説における〉と前提するけど、たとえば旅をするように物語のコンテクストを歩いて行く・そのように書くという行為において、その道筋が直線的なことは圧倒的に面白くない。私は何を書くにおいてもなるべくなるべく直線的にならないように、旅のたとえならなるべく寄り道をしたり、結果として全然知らない場所に迷い込んだりというのを励行するようみずからによびかけているけれど、今回の〈発見〉はそれと矛盾せずにしかし、またすこし角度のちがう、なんとも新鮮なやりかただった。まだ自分の中で精査できてないのでここに詳しく書くことははばかられるし現在までですでにみずからの半可通っぷりに嫌気がさしてキメーのだけど、とにかく、ずっと読みたかった本を読んで、おもしろかったし、あらたな発見もあって、楽しい気分になった。ということを長々書いたに過ぎない。
いま、どこまでも書き歩んでいけるしいつまでも書きこんでゆけるような浅はかな感覚と幼いよろこびに私がうれしがっているのを邪魔する冷ややかな目を誰かがもしくは自分の中の意地悪な部分が向けることもあるだろうけど、同じ文章のつづり作業でも明確に〈作業〉と捉え、またそれゆえに関係者へ恒常的な心の応援を要請することでなんとかすすめる台本執筆と、たとえばこういう誰かのパクりにすぎないと吐き捨てられ〈無意味〉と書かれたハンマーで頭を叩くに易い文章は違う。恥ずかしげも無いように見える私の態度の本来には、みずからの恥ずかしげを個人的に乗り越えて、もしくは、目を瞑って、もしくは〈手習い〉とか〈筆ならし〉と大きく書かれた盾を掲げて書き進めるおくびょうな子どもがいる。乗り越えているのでも、目を瞑っているのでも、盾を掲げているのでも、そのいずれにせよ彼はやわらかな眉間へ似つかわしくない太い縦皺を何本もこさえ奥歯を強く噛んだ表情でそうしている。
20250104
『ザカリーに捧ぐ』/『夏の毛になる』感想
『ザカリーに捧ぐ』、『夏の毛になる』という二つの作品を年始から観た。まったく似てはいないこれらの作品をそのつもりもなくたまたま続けて観たことで、しかしながら二つを並べて感想を書くことを求められてような気持ちになるから書いている。求められている?でも誰にか?
『ザカリーに捧ぐ』は、ある悲しい事件にまつわるドキュメンタリーで、その被害者の親友が監督した。
『夏の毛になる』は、ナイトウユキという一人の女性の半生を描く演劇作品で、主人公と同姓同名の内藤ゆきさんが企画・脚本・主演を務めている。
『ザカリーに捧ぐ』はともあれ、『夏の毛になる』のナイトウユキが内藤ゆきと(ニア)イコールで結ばれるのかどうかは、内藤ゆきさんと知り合いではない私にはどんなに言葉を重ねても類推の域を出ないし、本音を言えば〈演劇〉として、──言い換えれば脚本が書かれ演出がつき俳優たちによって公演期間に複数回同じ出来事が繰り返された──つまりは作品という発表形態を取られた時点でどっちだっていいのだが。しかしながら『夏の毛になる』が事実を編集する形で作られた(っぽい)ということをどの程度無視して感想を書くべきかというのは、おそらく『ザカリー』『夏の毛』をわざわざ並べ立てるよう求めてきたあの〈何者か〉のために書いている気分である私は、その点慎重にならねばねという思いもまた、ある。
まず前提として申し上げたい姿勢として、私はそもそもドキュメンタリーというジャンルの作品に感想を述べることを好まない。これは好みの話でもあるが個人的な倫理観に基づいている。ドキュメンタリーが嫌いなのではなくドキュメンタリーに面白い/面白くないだとかの評価みたいな判断を下すのを好まないという意味。〈それ〉は本当に起きたことだから。本当に起きたこと、特にドキュメンタリーで取り上げられる本当に起きたことは、その多くが、作者もしくは被写体の悲しみや苦しみや祈りを内包している。実際に悲しみ苦しみ祈る人間の姿は、面白いとか面白くないとかではない。良い悪いでもない。「そうなんだ」という一言だけで済ませたいのが私なりの誠実さなんだ。
劇中で何人が殺されたとしても画面の外には誰も死ぬことも悲しむこともない、つまりはどこまで行っても寓話で比喩の域から出ない〈フィクション〉という在り方と、この世界と直列的に地続きな〈ドキュメンタリー〉という在り方の差異に、私は鑑賞者として対峙するにおいて、ものすごくこだわる。
だからこれから二つの作品を、〈ドキュメンタリー作品〉という前提で感想する時と、〈フィクション作品〉と前提して感想する時では、語ることの対象も論点も異なるのではないかと予想している。多分そうなる。それが、私が「そうなんだ」で済ますこともできる中でそれでも野暮のような感応を書きくださせた、作品の力の証明だから。
【フィクション作品として】
『ザカリーに捧ぐ』はまじのフィクションではないから【フィクションとして】とか書いておいていきなり難しいが、これが映像作品であるという点でまだ語る余地を残している。複数カットを時系列ではない順番で編集される時点で、その内容ではなく編集における〈並べ方〉には演出が宿る。時系列ではないというのが重要だと思う。操作されているから。そしてその点で私はほとんど唾棄の気分というか、「くそ最悪じゃん」と思う。監督に対して。
今作で扱われている事件のあらましは事実ゆえに前述の前提によって割愛および無視するが、事件の被害者の親友で、学生時代に一緒に映画を作ったこともある監督が、被害者男性への哀悼と、生まれてくる「世界一幸せで、世界一不幸な子」である被害者男性の息子に、「君のパパは世界一最高だったんだぜ」というのを教えるためにこの映画は作られるのだ、というのが劇中、監督によって語られる。原題『DEAR ZACHARY:A LETTER TO A SON ABOUT HIS FATHER』というのがいま私がダラダラ書いた一文を要約している。ザカリーというのが息子の名前である。私は映画を観ながら「ザカリーに観せない方がいいんじゃないの」と危うさを感じていた。ザカリーの父に対する賛辞は家族も友人も元カノまで出てきて語られるが、それは彼らがいつかザカリーに会った時に直接言えば良いと思うんだ。もしくは、インタビューをするにしても、ザカリーの父が恐ろしく悍ましい事件に巻き込まれる、その本当に悍ましい内実を、なぜザカリーへつまびらかに知らせたいのだろうか?「作品」として発表されれば、ザカリーの意思と無関係に彼は知ることになり、また彼の人生にこの映画がついてまわってしまう。事件のことは、父を喪って育ったザカリー自身の人生の、彼の望んだタイミングで、彼の能動的な意思によって知るべきではないのだろうか?
とはいえ観進めていくと、なぜこの映画が作られまた世に発表されることになるのかは納得できた。ああそういうことね。そういうことならまあいいかとさっきの懸念は去る。だけど、冒頭に私が「くそ最悪じゃん」と思ったのも、納得の終わった後に最も去来した感情なのだ。
事件が起きたということは、その事件の被害者や加害者がいるということであるし、それがドキュメントになるということは、再現ドラマではない形態つまり既存の素材の組み合わせによってその事件の内容を表現するわけだが、ところどころの編集にものすごく皮肉的というか、不愉快な、作者の悪意を感ぜざるを得ない箇所がある。無自覚にやったと言われても信じない。本気で「どういう神経してたらこの時にこの映像をつけるんだ」と思った。この映画を作るにあたっての作者の、変遷しながらも貫こうとする意志だとか祈りだとかモチベーションを偽りだとまでは言いたくないが、編集作業中にその意志/祈り/モチベーションが「作品を作るための」演出に第一義を見出してしまったんじゃないのか。そうじゃなければ、いやそうだとしても、迂闊すぎる。悪魔のような犯人への怒りを携えてるのはわかるけれど、この悪趣味さはお前も十分悪魔だよと私は思う。
『夏の毛になる』についてを【フィクションとして】考える。ナイトウユキの半生は彼女が自身で自嘲するように、いつも二択を最悪な方向へ間違えるらしい。それでも私は、だとしたら内容が薄いんではないかいと思った。彼女は「二択を間違え」るというけれど、ではどうすればよかったの?と思えば、どうしようもなくないか?と思うし、劇中でナイトウユキが自ら選択したことは〈女優を目指して東京へ行く〉〈社員になって遊びまくる〉〈病院へ行く〉くらいしか思い出せないのだが、そのどれもに対して、二択も何も、他に選択肢を作者は用意しているのだろうか?最後の〈病院へ行く〉はまあ、あるか。でもそれぞれのナイトウユキの選択は、最悪なのかなあ。強制的な一択に見えるけれど。強制的な一択、特にラストの展開である〈病院へ行く〜裁判する〉というくだりに、観客は打ちのめされ、ショックを感じ、心を揺り動かされているのだと思う。「なんでこんなに可哀想な目に」もしくは「明日は我が身」と。だけどあくまでフィクションとして考えるとき、そこまで目新しい展開ではない。観客の感想を見るとそのどれもがノンフィクションであるという前提を持っていることと、私がいま自らに強制的なフィクションとしての前提を持っていることの乖離だろうけど。現実世界の話ではなくてフィクション作品の話としてあの展開は、ゼロ年代後半の携帯小説ブームで量産された悲しみやよるべなさの範囲にとどまっていると思う。
だから私は半生の変遷つまり物語としては不満が残る。もっとさ、もっと素晴らしい一発逆転ができたんじゃないかしら。私がこの作品で好きだったのはむしろ前半だ。トランポリンを買うも足がついていなくてゴミ。目論んだことは達成できず、それでも無理矢理にでもはしゃいだ自撮りを撮って無理矢理にでも楽しい気持ちになる。私はそこに自嘲を見なかった。これが人生を楽しく豊かにする方法だ、と思った。痛快さを見る。その後の、夢を持って上京する前のシーケンスもいい。犬のソラが失踪して、だけど隣家であっけなく見つかって、最後の散歩で星を見る。私たちが目にする星の光は光年分離れた、昔の光だ。昔の光を見ているナイトウユキとソラの姿もまた、現在時点のナイトウユキの回想で、つまりは昔の“光“景だ。その回想を見ている現在の観客である私たち。このメタ的な構造にあって、しかしながら誰よりも未来を展望しているのは夜空を見ているナイトウユキなのだ。構造に尽きず視座を未来へと伸ばすあの煌めきは、マジで、星の光のようだった。
その先に待ち構えているのは普通に普通のありきたりな現実だった。過酷なように描かれていても過酷ではなくてあれが現実の現実性だ。現実だな。現実って感じ。だ。過酷に感じるのは夢いっぱいだったからだ。だけどそうじゃん。夢いっぱいだと思って現実が現実って感じならそうなるよ。ラッキースターは降らない。泉こなたみたいな髪の色をして長さをした女子高生はいない。現実っぽい現実を「現実だな」と醒めさせないのは内藤ゆきさんのチャーミングな芝居とそれによって身体を得るナイトウユキの可愛い人間性と、学くん/高橋さん との会話を時系列を違えながら同時に進行させる演出の鮮やかさなんかに依る。つまりは編集だ。シーン編集が恐ろしくうまい。ものすごい技術だ。内容がありきたりで薄いと私は感じながらも退屈にはならなかったのは、テキストというより演劇としてものすごく高い水準でのフィクションになっていたからだ。
そうだ、だから、『夏の毛になる』は、ナイトウユキがいかに可愛いかの話に終始するのでよかったんじゃないかしら。いろんなバカな失敗をしてしまうけれど、どんな時でも元気で、落ち込んだりもするけど、いつでもあの頃のように星を見上げるようにして、素敵な彼氏がまたできる予感や、宮﨑あおいじゃないけどまた別の在り方としての自分を見つけそうだよ、そんなバカみたいでウソくさくてご都合主義的な展開が、どこかにあっても良いと思うんだ。結局「大成を夢見て上京した女性のあるある転落物語」と要約されるには、ナイトウユキは可愛すぎるよ。彼女の半生があんなに打ちひしがれるだけの瞬間ばかりであったはずがない。例えば彼氏と出会って恋に落ちる時には胸の大鐘楼が爆音でリンゴンリンゴン鳴るとか、あったはずなんだ。どうして彼氏が劇中に登場する時は、彼女に冷たくする瞬間だけなんだ。夜を明かして話を聞いてくれる時間はナレーションだけなんだ。ナイトウユキをいじめているのは、観客にネガティヴな感応を感じさせている元凶は、この物語自体だ。私は『夏の毛になる』という物語を憎む。それは俺の好きな子をいじめるな!という、ちびっ子みたいな気持ちだ。
おい!ラストシーンで転んで遂に泣いちゃったじゃねえかよ!せっかくご飯が炊けたのに転んでこぼしちゃってるじゃないか。てめーーー!!!!
ご飯をこぼさせるなら、そのこぼれて服にいくつも付着したご飯粒が、まるで星空になっているということを、観客に気づかせてほしい。私はまるであの冬の星空みたいになってるよユキちゃんと思ったよ。ご飯つぶ座だね。生活座だね。食べれる星だよ。そう思った。喋れるようになったソラはその指摘をするべきだった。観客はソラとユキちゃんがおしゃべりできるからって救われない。ユキちゃんが悲しんだままだから。「夏の毛の新しい私になるんだ!」というユキちゃんのヤケクソな明るさだけでは救われないよ。だって何も現実つまり物語自体が彼女に優しくしてくれていないんだもの。ソラが、「ユキちゃん、ご飯粒が星空みたいだね」って言ってくれたら。昔会ったことは消えないけれど、自分を生かすために食べれるんだ。そんな希望の提示の仕方をしてくれたら。最悪な半生から未確定の未来を眺める。きっとユキちゃんに来るんだから。全部全部取り返せるよ。出てきたやつ全員大集合して『かえるのうた』のラストみたいにしてしまえばいい。そのあり得なさがフィクションの力だと思うから。
【ドキュメンタリーとして】
『ザカリーに捧ぐ』をドキュメンタリーとしてどうこう言うにあたり考えるのはやはりあの痛ましい事件について、被害者男性の父の近親者たちが総動員されていることで彼らは2008年の公開から現在時点で15年以上経過して、例えばこんな島国の無責任な人間が、彼なりの矜持に起因していても「そうですか」という感想を持とうとしているのをどう感じるのだろうかということに尽きる。私たちは他人で、当事者の痛みの量を感じ得ない。死ぬほどの痛ましい事件をお正月の暇つぶしに使う。つまり、作者および関係者たちと、無傷な他人である鑑賞者の乖離の問題がここにはある。私は正直なところ、中盤で「おー、そうなるんだ、なるほどね」と思ったよ。まるで物語を見るようにして。だけどそれはそう思わせるように演出されていたからで、私の人間性の問題だけじゃないと感じる。しかして、写された近親者が私の「おー、そうなるんだ、なるほどね」をどう思うんだろうと一拍置いて考えてしまう。痛ましい事件とそれにまつわる魂が、歴史の砂浜で波にさらわれないようにするという、ジャーナリズム的義務感は記録映像のひとつの責務だと思うけれど、『ザカリーに捧ぐ』は記録映像ではなくて、個人の悲しい記憶の集積だ。そして彼らは、この映画に依って、顔と名前を私のような島国の無責任な人間にみとめられ、可哀想な人たちと印象されてしまった。15年以上も経って。
『ザカリーに捧ぐ』に限らないが、悲しい出来事が扱われたドキュメンタリーを目に耳にする時に、私の心に浮かぶ一説がある。その、吉田健一『長崎』からの一節を引く。
戰爭に反對する最も有效な方法が、過去の戰爭のひどさを强調し、二度と再び、……と宣傳することであるとはどうしても思へない。戰災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人達も、見せものではない。古傷は消えなければならないのである。 戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでも拘はつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つてゐる感じがするのである。
これは私の心にあるひとつの指標である。傷は回復しなければならない。どんなに悲しい瞬間を切り取られたドキュメンタリー映画の後にも、人生には続きがあるから。
『夏の毛になる』を内藤ゆきさんの半生を基にした自伝的作品と前提して考えるにあたっても、『長崎』の一節のことは浮かんだ。ただ、個人が自分の苦しみを昇華する目的でそれを作品化すること自体を私は否定しない。「いま、自分はあの頃のことを書かなければいけない」という天啓があるのかはどうあれ、これからの人生を送る自分にその出来事を切り離すために、作品化は有効だと思うから。私がひとつ心配なのは、自身が演じることだ。稽古期間を含めて何度も向き合い、また多くの衆目の前で(どうしたって)道化的に、悲しみを再体験することは、内藤ゆきさん自身に悲しい記憶を消えない呪いにしてしまわないだろうか。この作品によってスッキリした他人事と、幾分でも捉え直すことができたのなら私の杞憂はくしゃくしゃに丸めてミキサーにかけて晴れた日にでも風に飛ばす。
この作品を〈ドキュメンタリー〉として捉える際、上記もさることながら、私が上演当時にツイッターなどで何度もその題を冠して投稿された文章を見るにつけ感じていたことは、作品の内容というよりは観客たちの反応だった。詳しく全てを精査しているわけでもないので感想を私の印象として包括することに後ろめたさを感じるが、作品を飛び越えて〈内藤ゆき〉という人間に対しての、それは憐憫であったり賛辞であったりするが、ともかくみずからの興奮の甚だしさをよく読んだ。一応書くが、感想とはそういうものだ。
だけど、私がそれら激しい興奮によって書かれた文章を見た時と、先日ゲネプロ映像で『夏の毛になる』を実際に観た後でふたたび観客の感想文を思い返した時に真っ先に浮かんだのは〈グロテスク〉というイメージだった。〈作品〉として発表された『夏の毛になる』への感想が、内藤ゆきという個人の人生への感想になっていることを、シンプルに怖く感じたのだ。もちろん作品への言及にとどまった感想もあっただろうが、みずから調べてもいないのに私が『夏の毛になる』を作者の自伝だと認識していたことが当時の印象を持った証左である。この作品への感想が、ナイトウユキの半生ではなく内藤ゆきの半生として捉えられることは、ナイトウユキと同姓同名の作者によって書かれ同姓同名の俳優が演じたことが大きいのだろうから、観客の感想は自然なのだが。「これは自伝です」というアナウンスがあったかどうかは知らない。
私はやっぱり、作品への言葉がそのまま現実に今生きている個人の人生へ二重写にされることをものすごく怖いと感じる。そしてもし多くの部分がノンフィクションであるならば、観客がいかに〈作品として〉と意識しながら感想を書いたとしても、それは観客の意図とは無関係に、個人の人生への二重写になってしまう。何度も書くけど私の怖がりは私の怖がりでしかない。余計なお世話かもしれない、本当に。だけど、「“内藤さんに”そんなことがあったなんて」と私は素直に思ってしまった。安全な場所で当事者でもない知り合いでもない私が抱くその同情や憐憫や激励めいた祈りは、内藤ゆきさんの人生へ無責任である一点で、強い自罰を促す。せめてお前も他の観客のように感想を書けと、何もない空間から呼びかけてくる声が聞こえる。それでも、繰り返しになるけど「そうなんだ」で済ますことのできなかったのは、作品としての力だ。ポジティブなことは書けなかったかもしれないけど、私はみずからに罰を与えるようにしてこれを書いた。人生の情けなくて悲しいところばかりピックアップされたまま終了し、そしてふたたび再生を強いられる枠に閉じ込められているまるで幽霊のようなユキちゃんが、こちらに干渉することはできない。観客もみんなユキちゃんの過去の時間を見る幽霊で、我々は劇場の同じ空間に居たって舞台と客席のレイヤーを区別し、お互いを峻別する。同じ時間を過ごしていたのにね。だから、だから、私が強く意識して願うのは、内藤ゆきさんのこれからじゃなくて、作品として終わった後の、かわいいかわいいナイトウユキちゃんのこれから。それだけが手を伸ばす唯一の方法。
アースミュージックエコロジーのCMみたいな映像、俺が撮るよ。本物のアースミュージックエコロジーじゃないことだけ勘弁だけど、撮るだけなら任せてよ。あれって1カットだっけ。30分で叶う夢だよ。私の頭の中にはユキちゃんを撮影する自分の映像を浮かべることができる。これは私が、私だけの責任で、頭の中で描いている。これまでユキちゃんを知らなかった私には、これまではありえなかったけど今こうして描いてる。頭の中か外かなんて、フィクションかドキュメンタリーかよりずっと関係ないことだと思うんだ。いくよ。いいですか。ヨーイ、はい。